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年月日

 令和6年5月25日(土)
 14時~16時

催 し  令和6年度 第1回理事会
場 所
 リモート会議で実施
 
 
 
 
 
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米沢有為会『文化大学』
講演録(平成27年)


 
 米沢有為会会誌第65号(平成27年10月)より抜粋
 

第12回文化大学(平成27年9月13日(土))

 
 第12回文化大学は、先日他界した思想家、吉本隆明は、戦中、米沢高等工業の学生として米沢で青春を送った「米沢」はどのように見えていたのか、興味深いお話しでした。

 ・演題;米沢高等工業の戦中戦後~吉本隆明の学生生活と山形大学への参加
 ・講師;山形大学教授 山本 陽史

▼講師プロフィール
 昭和34年和歌山市生まれ。現在山形大学基盤教育院教授。専攻は江戸時代を中心とする日本文学・日本文化論。近著に『日本語再入門』『藤沢周平と山形』等。 趣味はトランペット演奏。日本アマチュアブラスアンサンブル組織(NABEO、ナベオ)代表(1987~2013)、日本トランペット協会常任理事
 
(講演概要)
 
 明治22(1889)年に日本で初めて市制が施行されたとき、米沢も市となった。その時の人口は2万9千5百人あまりで、全国32位、秋田市・山形市よりやや多い人口であった。一方仙台市は人口9万人であった。仙台は人口8位で、当時でも大都市といって良いだろうが、現代と比べれば米沢と人口規模にさほど差が無い。
 明治39年、仙台に日本で6番目の高等工業学校(のちの東北大学工学部)が開校された。仙台の町を拓いた伊達政宗の生誕地であり、その後名門上杉家の城下町であった米沢の人々は仙台に対抗心があったはずで、大きな刺激を受けた。仙台の次は米沢だ、ということで、熱心な誘致運動が繰り広げられたのである。
 明治43年に開校された米沢高等工業学校は、近代日本の工業界を支える多くの人材を輩出する人材を生み出した有力な学校であった。戦後の新制大学設置で工業系の単科大学となる計画もあった。その実力は十分にあったが、当時の国の1県1大学の方針に従い、昭和24年に新制山形大学に工学部として加わり、今日に至っている。現在でも日本有数の研究水準と規模を誇っている。
 戦後最大の思想家と評される吉本隆明(よしもと・たかあき、大正13(1924)~平成24(1012))が米沢高等工業学校(現山形大学工学部)を卒業したことはあまり知られていない。事典類では最終学歴の東京工業大学のみを記載しているものがほとんどだからである。
 昭和17(1942)年4月、応用化学科の新入生としてやってきた吉本は米沢駅に降り立った。その時のことを古本は「鉛色の空からは、霙の雨がぽつりぽつりとおち、眼の前にはだだっぴろくみえる街のメインーストリートの1つが、まつすぐに延び、内側には異常におしひしがれてみえる低い家並がつづいていた。この暗いさびれた街で、3年暮すのかとかんがえて、おもわずそのまま帰ろうかとおもったというのがそのときの本音である」(「過去についての自註」)と回想している。
 東京の月島で生まれ育った吉本にとって、四方を山で囲まれた雪深い盆地にある米沢の風景はまったく予想外のものであったのだ。しかし、吉本の人生にとって米沢での生活は非常に大きな意味があったのである。
 その1つは、宮沢賢治を知ったことである。賢治ファンの友人に賢治の作品を紹介されたことがきっかけで賢治の作品、とくに詩に傾倒するようになる。賢治は土壌や肥料などを研究する農芸化学者であった。化学を専攻する吉本にはその点も共感できる部分かあった。理系人間で詩人でもある賢治にならって吉本も盛んに詩を作るようになる。初期の詩には賢治の影響が見られる。たとえば板谷峠を「プランタニイ峠」と国籍不明の地名としている。賢治の「イーハトーブ」などの地名の付け方にならったのであろう。
 花巻まで出かけていって賢治の作品の舞台を歩いたり、応化寮の自室の天井に「雨ニモ負ケズ」を墨書した紙を貼って日夜飽かず眺めていたという傾倒ぶりであった。
 2つ目に言語や社会の本質を考えるきっかけを得たことである。昭和18年秋、2年生の吉本は近郊の農家に米を買い出しに行った。ところが先方の言っている言葉の意味が皆目わからない。米沢弁を知っているつもりでいた吉本にとって大変なショックであった。
 この体験から、吉本は方言の違いと異種族語は「地続き」だという認識を持つことになった。東北弁は「東北語」、鹿児島弁は「西南語」と言うべきで、言葉の壁の存在を認めることから、それぞれの地域の人々はそれぞれ独自の「共同観念」を持っているという後年の「共同幻想論」につながっていったと見られる。
 最後に東北の自然に接したことである。そのことは吉本の精神の危機を何度か救った。賢治が生きた自然を米沢の自然にも見いだし、「東北の自然」に親しんだ。「色々な苦しいときに、日に幾度も色どりを変える吾妻連峰の山肌を鮮やかに思いうかべた。人間と人間の入りくんだ心の関係、人間と社会との矛盾の奥深くのめり込んでどうにもならないとき、その風景の印象は、わたしの思考を正常さにもどしてくれた」(「昭和17年から19年のこと」)と述懐している。
 このように、吉本隆明の思想と人生を語るとき、米沢での日々の意味をきちんと押さえておくべきなのである。

 

第13回文化大学(平成27年11月9日(日))

 
 第13回文化大学は、同誌の俳人としての歩み、俳句に対する思い、歴史における芭蕉の存在などユーモアを交えての迫力ある講話でした。
 会の後半は、小山泰氏({「漆の実」同人)の指導で句会となり、出席した全員が事前に提示されていた題で投句し最後は、講師の選句が詠みあげられ歓声が飛び交うなか活気溢れる会は終了しました。

 ・演題;「俳句」の楽しみ方-今を生きる-
 ・講師;米沢有為会俳句同好会「漆の実」主宰 鈴木 淳一

▼講師プロフィール
 昭和3年米沢市生れ。昭和20年米沢興譲館、昭和23年米沢工専卒。昭和23年電信電話公社(現㈱NTT)入社。 砧・淀橋・世田谷・蒲田電報電話局長を歴任、昭和60年定年退職。昭和29俳句入門。中川糸遊に師事。昭和56年、 楠本憲吉主宰「野の会」に入会。師事。無監査同人。現在:俳誌「漆の実」主宰・米沢工業会誌(山形大学工学部校友会誌)「吾妻俳壇」選者
 
(講演概要)
 
 10月13日東京興譲館で『俳句の楽しみ方』をテーマに1時間半ほど話をしたが、原点である寮生諸君への「俳句の願望」が、一般の人もおられボヤけてしまったので改めて稿を継ぐ。
 最近の俳壇は、一見豪華絢爛のごとくに見える。俳句結社も千社ほどあるといわれている。だが実際はどうか。市販されている俳句総合雑誌数誌をめくっただけでも何十年前の内容と同じ企画で、巻頭句には70代80代の作家が旧態依然として30句、50句の作品が並んでいるのである。
 過日、朝日新聞文化欄に、大きく「若手俳人掘り起こせ」のキャッチフレーズに、現俳壇でのマンネリズムが高齢化とともに俳句界は滅びることを記事にしていて、私も全く同感でもあった。俳句の未来のためには若手を掘り起こして育成することが急務だと思う。
 俳句は「自然も人間の感情もすべて受入れ、プラス思考で作る詩型。俳句の未来のために今できること」をモットーに今回のテーマを決めた。
 寮生は現在20名ほどとか。当日は8名が参加予定者にあった。後述するが後半は一般の人をも含む三十数名で句会が行われ、私の特選に寮生3人が入っていて非常に嬉しかった。俳句をすすめるといっても掛け声だけでは何もならないので「俳句をやって得をすること10点」をかかげる。今回はその中から5点ほど。
 
1.青春時代は悩める日々である。
 
 将来の事、生活の日々の事、家族の事、肉体の事異性との事。いろいろきりだせば尽きないけれど、 俳句はそれを解消できると思う。その一好例として、平成20年2月25日付の朝日新聞に掲載された「ランドセル俳人卒業と夢と」を紹介する。

  小林 凛君 長谷川擢から贈られた句を背に
小学生俳人小林 凛(12)は超低出生体重児で生まれた。小学校に入っていじめを受け始め、自主休校もした。いつも傍にあったのは幼児から絵本で親しんだ俳句だった。その心のイライラモヤモヤを俳句にして朝日俳壇に投稿した。その作品は
 ゆっくりと花びらになる蝶々かな    (9威)
 抜け殼や声なき蝉の贈りもの      (9歳)
 春嵐賢治のコートなびかせて      (10歳)
 生れしを幸かと聞かれ春の宵      (11歳)
 いじめられ行きたし行けぬ春の雨    (11歳)
 環境を変えようと一念発起して中学受験に挑戦した。「俳句と同じくらい集中した」結果の合格。4月からの新生活を楽しみにしている。自宅の居間には朝日俳壇選者の長谷川擢が凛に贈った「小さく生まれて大きく育て雲の峰」が飾られ、句作りする凛の背中を見守る。がその記事の内容だが、やはりこの世に生を享けたのだからプラス思考で進むべきだろう。俳句はたった五・七・五の世界、超短詩型。いまの自分の気持ちを俳句に託したらどうだろうか。若いときは悩みなんかはいくらでもある、だから人生は面白いくらいの気持ちで心のどっかに余裕を持って欲しい。そのなやみを破棄するところが俳句だと思う。挑戦してみて欲しい。
 
2.俳句はお金がかからない。
 
 一般に芸事はお金がかかりやすいが、俳句は、鉛筆一本とノート(メモ用紙)があればよい。あとは自分の人生観へのフィーリングだ。
 
3.句会はなるべく顔を出すこと。
 
 一般にはその俳句結社が主催する句会が月に1回はある。自分で予定を入れ必ず出席すること。自分の職域以外の他の分野の人と顔を合わせなお俳句を通して人間交流に接する事が、自分の成長過程で必ずプラスになる。貴重な人生経験のプロセスだ。人間の巾が間違いなく広がる。
 俳句という大きな文芸のジャンルの中で知り得た入間関係はお金では買えない。
 
4.俳号について
 
 自分のもう一人の人物を作ることができる。それが俳号。私は若いころ文彦と号した。初めての句会で私の句が披講されたとき、 文彦と名乗ったときの感激いまも覚えている。も一人に自分かそこに居つたからだ。是非もう一人の自分の姿の俳号をもって欲しい。 ユニークな人生を送ろう。
 
5.歳時記について
 
 NHKの俳句用語辞典によれば、歳時記とは、俳句の季語、季題を集め、新年および四季に分類したものに、夫々の季語解説と例句を加えた書籍をいう。俳句実作の手引きであると共に、日本の風土・自然・生活に関する百科事典的な役割も果たしている。と記されている。アメリカのジャーナリストが、あなたが無人島に行くときは何の本を持って行くかアンケートをとったところ、西洋人は「聖書」と答え、日本人は「歳時記」と言ったとされる有名な話かある。ともかく歳時記は俳句を作る手引書だけでなく一生座右の書として傍に置いておくべきだろう。
 

第14回文化大学(平成27年4月19日(日))

 
演題;出版界の草分け『博文館』と大橋音羽の物語(米沢、音羽屋旅館生まれ)
講師;博文館新社4代社長 大橋 一弘(音羽の孫さん)

(講演概要)
 
 米沢が生んだ文豪、大橋乙羽は明治2年6月4日、米沢の立町にあった旅館音羽屋、渡部治兵衛の六男として生まれる。
 本名を又太郎、雅号は音羽屋に因んだ「乙羽」。興譲小学校卒業後、父の知人、呉服商富土屋に見習いとして勤めながら、お寺に通い漢学・漢詩を学び文才を養う。

大橋音羽・時子ご夫妻
 明治21年7月13日、磐梯山の大噴火が起こった。その日偶々小野川に宿泊していた乙羽は直ちに吾妻を越え、会津の現地に赴き生々しい惨状を記事にして出羽新聞に発表。これ が米沢出身の出版社東陽堂社長の吾妻健三郎の目に止まり同社に入社。
 明治21年9上京。同月処女作「美人の俤(おもかげ)」を刊行、明治25年、博文館の少年文学に上杉鷹山公の伝記を掲載したところ同社主人の大橋佐平にその才能を買われ、同社に移籍、長女時子と結婚。
 博文館入社後、専務理事として数々の出版を企画、当時の大衆雑誌「太陽」「文芸倶楽部」等の企画や編集に関わり、樋口一葉、巌谷小波、高山樗牛等の作品を紹介した。
 ヨーロッパ取材旅行の後、体調を崩し明治34年6月1日32歳の生涯を閉じた。  郷土を愛した乙羽の遺言により興譲小学校に5百円、東京養老院、東京盲唖学校にそれぞれ百円という大金を寄付した。
 人格高潔にして、文才あり己の作品のみならず、樋口一葉らの文人を発掘し、また企業経営にも敏腕を奮い、義父の期待に応え初期博文館の発展に貢献した。短い生涯ではあったが、文学界に大きな足跡を残した。
 

第15回文化大学(平成27年7月5日(日))

 
 ・演題;農との出会い~有機農業の里、高畠で神奈川の高校生が学んだこと
 ・講師;北里大学教授 川井 陽一

 ご紹介いただきました川井です。高畠町に生まれ育ち、大学入学後2年間東京興譲館でお世話になりました。大学卒業後は神奈川の県立高校で教職に従事しました。本日は、その間、神奈川県立神奈川総合高校(以下、「神奈総」と略します)に勤務していた時に、私自身が企画、実施し、今年で20年目を迎える同校の高畠町における農業体験研修旅行を柱に、農と教育について私の考えていることをお話させていただきたいと思います。
 私たちの生命を支える食べ物、その食べ物の多くは農業に依拠しています。農業は、いわば、人間の「いのち」そのものを支える大切な役目を果たしています。しかしながら、昨今多くの人々は、農業への関心が薄く、また生産者の苦労に思いを馳せることが少ないのが現実ではないでしょうか。「農への無関心は、いのちへの無関心と同義」という山下惣一の言葉を私は重く受け止めています。
 私か高畠での農業体験研修旅行を企画したのは、都会に住み日頃農業とは縁遠い生活を送っている高校生が、農という営みをとおして「食」や「環境」、さらには「いのち」や「豊かさ」について考えてほしいということが主な狙いでした。実際、高畠での研修旅行は、所期の目的を達成しておりますし、さらには、「共生」について考えたり、「生き方」そのものを問い直す生徒さえいます。毎年発行している記録集に寄せられた生徒の感想は、この研修旅行のもつ高い意義を示しています。
 多くの成果を得ている理由は、舞台としての高畠町、そして「神奈総」にあると考えています。
 最初に高畠町について触れます。高畠町では、一楽照雄氏らが中心になりわが国の有機農業が開始された2年後の1973(昭和48)年に有機農業への取り組みが始まりました。「神奈総」の研修旅行でも毎回講演をお願いしている高畠町の有機農業のリーダーで牽引者でもある星寛治氏が中心となり、40年以上にわたり有機農業への取組が行われています。有吉佐和子が高畠での取材をもとに星寛治氏らの取組を『複合汚染』で詳しく紹介し、あるいは、高畑勲監督の映画「おもひでぽろぽろ」では、有機農業に取り組む主人公トシオが高畠の青年をモデルに構想され、また近年では、原則編の『高畠学』(藤原書店)が出版されていることからも窺えるように、高畠町はわが国の有機農業の先進地であり、中心地です。農業体験研修旅行には誠に相応しい地、それが高畠町なのです。
 一方、「神奈総」すなわち神奈川県立神奈川総合高校は、1995(平成7)年創立の全日制・普通科の単位制高校です。学年の区分を設けず、生徒が自らの進路や関心に応じて時間割をつくる、ちょうど大学の学びのようなスタイルの学校です。生徒の自主性を尊重し、個性の伸長を重視している点にも特徴があります。私は県教委の準備室で「神奈総」の設立準備に当たり、開校と同時に教諭として着任し、同校の立ち上げに深く関わりました。 他校での修学旅行にあたる「神奈総」の研修旅行は、いくつかのコースから生徒が選択し参加します。研修旅行と称しているのは、事前学習を積み重ね、実施後は事後学習を行い、まとめの冊子を発行する、そうした一連の内容からきています。たとえば、高畠の研修旅行では、星寛治氏の『有機農業の力』は全員必読ですし、「おもひでぽろぽろ」も事前に鑑賞し、終了後は毎年充実した記録集を発行しています。研修旅行の内容ですが、農家に3泊し、農業体験や農家の方との交流により農業への理解を深めています。研修旅行参加後に再び援農に訪れたり、お世話になった農家の方と引き続き交流をもつ生徒も少なくありません。
 高畠町という舞台、町を挙げてのご支援、そして意欲的、積極的に農業体験に参加する「神奈総」の生徒たち、その幸福な出会いが、20年にわたり多くの成果と共に続いている理由かと思います。ちなみに「神奈総」では、沖縄や関西等への研修旅行よりも農業体験の研修旅行に人気があり、高畠だけでは収容できず、現在、高畠、長野県、北海道の3ヵ所で実施しています。
 本日は、「おもひでぽろぽろ」の映画の一部をご覧いただいたりしながら、私の体験を踏まえ、農と教育について話をさせていただきました。「農は自然を耕し、教育は人を耕す」という言葉を聞いたことがあります。農と教育に共通するキーワードは「耕す」かもしれません。有機農業は、土づくりが基本です。人間も土台が大切なことは言うまでもありません。今後の時代にあって、最先端の「人工知能」について、教育の分野でも真剣に考える必要があると考えております。一方で、人間の生の根源であり、教育とも深く関わる農業について、教育に携わる者は、大いに考える必要があると思っております。本日は貴重な機会をいただきありがとうございました。

現高校教諭のお嬢さんも講演助手としてお手伝い

 
 
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