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米沢有為会会誌創立120周年記念号
奨学金貸与制度創設98周年記念

奨学金貸与事業の歩み(抄)

 社団法人米沢有為会の育英事業の柱である郷土出身学生を対象にした奨学金貸与制度が明治44年に創設されてから、これまで98年の歳月を重ねている。その歩みは、明治44年から昭和18までの戦前期と、戦中戦後の休止期を経て制度復活を果たした昭和28年から今日までの戦後期とに、大きく2期に分けられる。明治から平成21年度まで、この制度のもとで修学した奨学生の総数は、延べ391名(実員数366名)を数える(現役学生を含む)。
 本会創立120周年の画期に際し、主に戦前期における『米滓有為会雑誌』(当初、本会創立に伴い明治22年12月に『有為会雑誌』として創刊。明治27年3月号から誌名変更。創刊以来、昭和18年5月までの55年間で、第516号までの刊行が確認されている。(以下ひと括りして『雑誌』と略称)、戦後期における『社団法人米沢有為会々誌』(昭和27年7月復刊。年刊)及び『社団法人米沢有為会会報』(平成16年六6創刊。年刊)の記録を手がかりにして、本会の奨学金貸与事業の歩みの大要をたどりたい。(文中、敬称略)

戦 前 期

 社団法人米沢有為会が奨学金貸与制度を設けて貸費生募集を開始したのは、明治44年3月号『雑誌』上のことで、翌4月26日評議貝会において、第1回の貸費生3名が決定された。この快挙は、突然に生起したのではなく、明治22年創立の有為会(明治25年に米沢有為会と改称)が、長年にわたって重ねた制度創設に向けた取り組みが実を結んだものであった。

制度創設への助走

 本会創立当初から意欲的に編集発行が続けられた『雑誌』各号を通覧すると、本会の当初の課題としては、会員の増加を図るとともに、寄宿舎問題を解決することが最優先であり、併行して奨学金貸与制度の創設に向けて準備が行われていたことがわかる。
 奨学金関連の記事が『雑誌』に初めて取り上げられたのは明治24年1月号で、米沢教育会による郷土出身学生8名への学資貸費が報じられている。米沢教育会は後に財団法人となるが、もともと「上杉家及び元米沢藩人の有志者元米沢藩人の子弟にして将来の望あれども学資に乏しく其志を空ふする者あるを憂へ醵金して補助養成する目的」で設立された団体で、明治20年3月に初めて3名の貸費生を募集した。
 この米沢教育会の奨学金貸与事業は、本会の活動とはお互い独立しながらも密接な協力関係にあり、明治40年代からは同会貸費生の第1次選考を本会が行うなどの経過を経て、昭和16年度に育英事業合同の結果、同会が財産を本会に承継して解散されるまで、郷土出身学生を対象として継続されている。
 明治26年の時点では、『雑誌』4月号に米沢寄宿舎の調査完了に関する記事掲載など、まずは寄宿舎問題が最優先の課題であったが、同時期、既に奨学金貸与制度に関する考究が始まっている。すなわち、前3月号において、本会員小柿源蔵が「米沢教育会改良論」と題して米沢教育会の活動を論じ、とりわけその貸費制度を詳細検討する論説を寄稿した。その中で、貸費制度を「教育会が書生に学資を貸付するの方針は、米沢の直接の利益にのみ拘泥せず」「単純に人材養成を旨とし、人々の頭脳に重を置き、人物の選択を厳重にし、無資力なる最優等の学生に学資貸付の月桂冠を被らしむる」にありと結論する。小柿源蔵は、後年の寄宿舎開設段階の会計部長を経て、明治44年の本会の奨学金貸与制度創設に際しては総務部長としてその強力な推進力となった(その後、明治45年から大正6年まで衆議院議員)。
 一方、明治34年には、元米沢尋常中学興譲館財団から寄贈の財産及び株式会社米沢義社からの寄付金をもって米沢興譲館財団が設立され、目的として学資貸与が掲げられて、その育英事業が開始されている。その直後から、その貸費生の選択を本会が行うよう働きかけしたい旨の総会可決が行われるなど、奨学金貸与制度に対する木会の強い関心がうかがえる。なお、同財団は、後に教育財団興譲館となり、その後、昭和16年度の育英事業合同によって解散され、その育英事業は、その財産とともに本会が承継することになる。
 明治36年1月号には、後に[東京]興譲館寄宿舎の初代館長となった教育学者の吉田熊次が、当時の置賜地域における貸費制度について、米沢教育会(広く文武の学生の養成を目的)、置賜武官養成会(専ら武官の養成を目的)、米沢興譲館財団(専らその株主の子弟の養成が目的)、各郡における有志団体(例として東郡の主に農学校生徒に貸費の制)の既に4種の制度があり、そして米沢有為会が計画中であることを記している。

規則中に追加規定

 明治40年に入り、奨学金貸与制度の創設を目指した動きが具体化し、同年8月の総会において規則「会則」改正が諮られ、新たに「本会は別に定むる処の規則により学生に貸費の制を設く」の1条が追加規定された(この条項は、明治42年12月24日付で社団法人設立認可された新定款第8条にそのまま引き継がれる)。その趣旨としては、「学資貸費の制や実に時代の要求に駆られて現はれる。今や郷里の青年にして笈を大都に負ひ学を学び業を習ふもの日に益々多きを加ふ」、既に米沢教育会が貸費生を募って学費欠乏の学生を助けているが「元より日に月に増加しつヽある学徒の要求を充たす能わず。中途にして資に窮し、或は始より資なきを以て有為の身徒に田圃の間に老ゐんとするもの亦漸く増加せんとす。資力今や内に充たんとする本会は其力の一部をこの目的に使用する」ことはまさに「郷土の為に慶賀せざるべからず也」と述べられ、ただし「其の実施の期日に至ては尚多少の歳月を要するべきは勿論なり」とも注記されている。
 本会が早くから奨学金貸与制度の必要性の認識を共有しながら実施に踏み出せなかった理由は、ひとえにそのための財源に見通しができなかった事情による。当時最優先の東京寄宿舎を設置する懸案には実現目途が立ちつつあったが、そのためにだけでも多額の経費を必要としていた。結局、寄宿舎建設のための土地確保は上杉家からの援助により、また、建設費は米沢興譲館財団からの借入金で当面賄われる。興譲館寄宿舎は明治41年4月3日、開館式を迎えた。
 奨学金貸与制度を実施するための財源に見通しがついたのは、明治43年7月に発表された「米沢有為会第二次拡張」計画が実行された結果である。その主意書において、会の資金を充実増強することにより、当時の債務を軽減し、寄宿舎を完備し、更に舎生の負担を軽くするとともに、「貸費の方法に依りて育英資金に当て、多くの人材を我郷より輩出せしめて、以て本会の目的を現実にする」ように「学生に学資の貸与を主眼とし更に育英上幾多の企画を向て新なる施設を為さんことを期」し、広く会員に向けて醵金の呼びかけが行われた。明治44年1の東京部(現・東京支部)新年宴会において、小林源蔵総務部長が新年における重大事業を挙げ、資金の充実によって貸費を実行すべきことを力説し、「第二次拡張」による寄付金により、寄宿舎開設時の借入金の償還をはじめ、当面の所要経費を賄ったうえで、その残余を財源として新たに奨学金貸与制度を実行することを述べている。

制度の発足

 いよいよ明治44年3月号の『雑誌』巻頭に「貸費生募集広告」及び「本会貸費生募集の開始」の記事が掲載された。貸費生募集の方針として「郷里子弟の為に育英の方針に貢献するは、地方団集の経営として最も其所を得たるものにして、本会が寄宿舎を建設し、特に教育部を置て此の目的に尽瘁する所以、亦此に見る所あれば也」、郷里に既に育英事業に取り組む機関はあるが、残念ながら「微力到底衆望を充す能はず」「其要趣たる親しく郷里の現状と貸費希望者の将来発展の要路とを講究し、慎重慎議広く人物を養成するの途を計」ることにあると記されている。第1回の貸費生(東京高等工業学校入学生及ひ高等学校志望生2名)は、4月26日評議員会において決定され、『雑誌』5月号に報告された。
 同時に、「米沢有為会貸費規則」が新たに制定されている。この規則には、貸費の金額が「1
1ヶ年150円以内」とあるが、実際の年額の多くは100円であったことが記録に残っている。当時は、7月中旬から9月上旬までの2か月間は夏休みで、貸費はその期間を除く年十か月月、月額にして10円であった。当初の興譲館寄宿舎生の支払い額は舎費3円(明治44年からうち1円について本会が補助して2円に減額)と別に食費6円であり、明治44年秋の寄宿舎報告によれば「即ち吾等は月8円にて東京の真中に生活し得る様にして戴きたるわけに候」という時代にある。当時の東京帝国大学学費は年額50円、米沢教育会貸費額は月6円であった。

戦前期における制度の変遷

 以上に概観したように、明治44年に本会の奨学金貸与事業が開始され、その後、大正9・10両年の募集中止と戦中・戦後約10年間の空白を挟みながらも、今日に至るまで、本会の中心育英事業の1つとして維持継続されてきたことになる。事業発足から今日に至るまでの本会奨学金貸与年額の変遷は、別表①のとおりである。

別表① 米沢有為会奨学金貸与年額の変遷

貸与開始年度
★貸与年額(返還年額)
明治44~大正10
★150円以内
大正11~昭和13
★200円以内
昭和14~18?
★300円以内
昭和28~35
★12,000円(12、000円)
昭和36~38
★24、000円(18,000円)
昭和39~43
★36,000円(24、000円)
昭和44~50
★6万円(36、000円)
昭和51~53
★24万円(96、000円)
昭和54~63
★24万円(144、000円)
平成元~10
★36万円(144,000円)
平成11~
★48万円(18万円)
 
大正9年3月の『雑誌』第300号記念号に掲載された「有為会小史」中の「貸費制度」の項には、「本会が創立以来二十余年……資金確立……第1回の貸費生を選定した。……育英事業漸く名実を備へ、有為会は遥に一路彼岸への光明を見出した。さあれこの航海は巨涛万波を越さねばならない。人材養成のユートピヤに達するまで幸多き航路を進ましむべき舟子の任務も亦重い哉」と記されている。「舟子」たる本会会員の総員の任務は、当時から今日まで変わらず、今後とも重く存在する。
 いずれ戦前期においても、潤沢な財源を用意することは困難で、各年の募集人員の決定に当たり、目前の財源を考慮しながら慎重な検討が加えられていたことをうかがうことができる。例えば、昭和元年度においては「経費の関係上新規募集は不可能」であったが、その後、篤志者の寄付金で2名を募集したところ、応募者10名があって、その中から2名を選考した。ちなみに、うち1名は女子(女子医専生)で、本会奨学生としての女子第1号となった(戦前期における女子奨学生の採用は、結果としてこの1名のみに終わっている)。
 本会活動に不可決の財源確保のため、戦前期においては、明治25年期の「第一次募集」、明治43年期の「第二次拡張」、大正12年期の「第三次拡張」、昭和12年期の「第四次基金募集」の4回にわたり、会員向けの募全活動が行われている。毎年会費とは別個に、大型募金に応じた会員からの醵金によって、育英事業をはじめとする本会の活動が成り立ってきた。同時に、個人篤志家の大口寄付も熱望され、それに応じ、昭和17年度に椿宮太郎・浜田五左衛門・高野源五郎・猪俣政次郎の4氏から奨学基金として各1万円か寄せられた。
 なお、戦前期における本会活動の財源の一部として、明治44年度以来、数次にわたり山形県費補助があった。これは、それぞれ郷土出身学生の育英事業に取り組む村山同郷会、荘内同郷会及び本会の3法人が連携して県当局に働きかけて実現している。

育英事業の合同

 戦前期における歩みとして他に特記されるべきは、昭和15年度において、地域の育英事業の担い手として半世紀前後の歴史を持つ財団法人米沢教育会及び教育財団興譲館と本会との育英事業合同が図られた結果、前2法人が解散、それぞれの資産が本会に寄贈されて、昭和6年度以降、本会が2法人による育英事業を承継することになったことがある。
 この育英事業合同により、本会の教育基金は、米沢有為会分13
2千円余、財団法人米沢教育会寄付分4
9千円余(うち貸費金1万六6円余)、教育財団興譲館寄付分8
9千円余(うち貸費金1
2千円余)を合算し、合計27
1千円余の規模となった。昭和16年度収支予算によると、収入合計1
3千169円(利息及び配当9千三337円、貸費償還3千300円、県補助金532円)の中から支出として育英金1
2千632円を計画し、金額を一般会計に繰り入れた結果、一般会計の収入合計は2
291円余で、その中から支出内訳として貸費5千165円、給費990円を計上している。
 なお、事業合同されるまでの教育財団興譲館の貸費生実績は154名、財団法人米沢教育会の貸費生実績は336名であったことを、昭和16度本会庶務報告は報じている。ただし、昭和17年3月号の『雑誌』上の米沢教育会の明治20年創設から昭和15年度まで貸費生謝恩会が昭和16年11月25日に上杉伯爵を迎えて行われた記事には、246名の貸費生名簿が掲載されている。

戦前期における貸費生

 現在、市立米沢図書館所蔵の『雑誌』は、昭和18年5月刊行の第515号までであり、その後、戦後の会誌復刊までの本会の動きを知ることはできない。現在知りうる限りで、明治44年度から昭和18年度までの33年間の貸費生の合計数は、延べ131名(うち女子1名)、実員数百二十名(うち女子1名)にのぽり、貸費総額は、推定で7万円規模となる。
 貸費生の卒業学校の内訳としては、昭和16年度末現在の庶務報告調べによれば、官立大学43名、私立大学5名、高等学校2名、高等師範学校3名、教員養成所2名、官立高等専門学校25名、私立高等専門学校4名と記録されている。
 なお、以上の奨学金の貸与制度のほかに、昭和14年度から給費制度が一時的に実施された。昭和14・15年度においては1名毎月4円、1年11か月分を米沢教育会及び本会が各半額負担して給与、育英事業合同後の昭和16年度においては1名毎月4円50銭を給与している。以上は米沢・長井の両中学校の生徒を対象としており、3か年で合計56名、金額2千五574円が給付された。昭和17年度以降は、米沢工業、米沢商業、置賜農の各学校の生徒にも対象を拡大して、合計20名を選抜し、1千532円の予算を計上している(昭和18年度予算は1千600円)。

戦 後 期

 戦時下と終戦直後における活動の困難な時期を経て、関係者の努力により社団法人米沢有為会の戦後復興が図られた。終戦直後の空襲によって、本会の活動拠点である東京・仙台の両寄宿舎が空襲によって灰燼に帰したことから、戦後復興第1の課題は、会員の増加及び寄宿舎の再建の問題解決にあり、そのため「米沢有為会拡充運動」の取り組みが行われた。奨学金貸与制度については、昭和25年8月に決議された改正定款(同年12月認可)の第4条(事業)第1号に「学資の貸給与」が当然に掲げられたが、会財政の窮状によって、その実施までにはしばらくの期間を要することになる。
 戦後の本会活動を記録する『社団法人米沢有為会々誌』は昭和27年7月に復刊された。その第2号(昭和28年7月)には、昭和27年度時点の教育基金は合計39
7千円余で、内訳として公社債・株式・預金34
2千円余とともに貸費金5
4千547七円余が記録されている。この貸費金額が戦前期における奨学金貸与制度による貸費残額ということになる。この貸費残額は、昭和39年度になって戦前期旧貸費生有志(小幡常夫代表)から「返済充当」として全額が寄付されて解消された。

個人寄付金が当初財源に

戦後期における最初の動きは、「当会固有の貸費生制度と別個」であるが、昭和28年4月に「故大滝龍五郎奨学金」が遺族からの当初寄付15万円(後年に増額)に基づいて誕生して、毎年1名、月千円の貸与、卒業後は翌月から毎月千円の返還する制度が発足した。この制度に基づく貸費生第1号が誕生したことにより、本会の戦後期における奨学金貸与制度が実質的に開始されたことになる。
 その後、昭和30年度において「故近新三郎奨学金
(寄付金15万円)及び昭和31年度において「小野奨学金」(寄付百万円)がそれぞれ誕生し、前者により毎年1名、後者により毎年2名の貸与が開始された。以上のように昭和35年度までは、3種の奨学基金ごとにそれぞれ貸費生か選考されている。

基金の合同運用・奨学金特別会計

 昭和34年度における本会創立70周年記念事業の柱の1つとして「本会固有の貸費金制度の復活」が掲げられ、募金活動の結果、会員醵出により奨学基金70万円が積み立てられた。その後、昭和36年度に各奨学基金の合同運用が決定され、財源を一般会計から分離して「奨学金別会計」が開設されると同時に、戦前の「社団法人米沢有為会貸費規則」が廃止され、新たに「米沢有為会奨学金貸与規則」が制定されて、ここに戦後期における本会の奨学金貸与制度が確立された。
 この以後、この奨学金特別会計には各種の寄金が加えられたが、平成21年度現在で同特別会計に列挙されている奨学基金の名称及び現在額は、別表②のとおりである。その総額6,194
4,207円(基全数34口)にのぼり、内訳は、個人寄付(27口)2,420万円、企業・団体寄付(4口)488万円余、周年記念寄付(3口)3,285万円余となっている。

別表②現奨学基金の充実の歩み(寄付年度順)

基 金 名 称
現 在 額
年度
大滝龍五郎氏奨学基金
150万円*1
昭和28
近新三郎氏奨学基金
15万円
昭和30
小野茂平氏奨学基金
100万円

70周年記念奨学基金
70万円
昭和34
川村高裁氏奨学基金
50万円
昭和36
山崎秀雄氏奨学基金
50万円
昭和38
旧貸費生有志奨学基金
15万円*1

村山義路氏奨学基金
20万円
昭和41
前山峯吉氏奨学基金
50万円

秋山武三郎氏奨学基金
50万円*3
昭和44
山口長次郎氏奨学基金
170万円*4

高梨湛氏奨学基金
10万円
昭和45
加瀬清雄氏奨学基金
50万円
昭和46
大熊こう氏奨学基金
50万円
昭和47
丸森道次郎氏奨学怯奎
50万円
昭和49
川崎勇・艶香氏奨学基分
300万円*4
昭和53
太国号太郎氏奨学基金
105万円
昭和55
90周年記念奨学基金
500万円

相田岩夫氏奨学基金
300万円
昭和57
加藤八郎氏奨学基金
200万円
昭和60
高橋与市氏奨学基金
30万円
昭和62
㈱キムラ奨学基金
200万円*4
昭和63
100周年記念奨学基金
2715
7525円*4
平成元
山口政男氏奨学基金
30万円
平成2
鈴本志喜氏奨学基金
50万円
平成4
三役埼悛吾氏奨学基金
150万円
平成5
大熊すき氏奨学基金
100万円

近野兼史氏奨学基金
50万円
平成8
九里尚知氏奨学基金
100万円
平成9
松田達氏奨学基金
40万円

石沢修一氏奨学基金
50万円
平成10
置賜建設㈱奨学基金
100万円
平成14
鈴木章氏奨学基金
100万円

斎藤絵画展奨学基金
173
6682円*5

*1昭和41~57年度の大滝信四郎氏寄贈分と合算して現在額に
*2他に5
4、547円寄贈で教育基金貸費金返済に充当
*3米沢市から移管
*4当初額から後年度に増額して現在額に
*5正式名「斉藤千代夫チャリティー絵画展事務局奨学基金」

財源の仕組み

 現行の本会の奨学金貸与制度は、上記奨学基金及びそれらの奨学基金が生み出す利子等を基礎財源にして、そのうえで卒業貸費生からの返還分を回転させる形で毎年の貸与が実施されている。
 これまでの歩みを見ると、いずれ厳しい経済状況が続く時期において、まずは、郷土出身学生の育英事業を柱とする本会の活動に賛同する個人・企業・団体からの大口寄付により、本会の奨学金貸与制度か成り立ってきたことがわかる。大口寄付された関係者に対し、深甚の敬意と感謝の念を表さずにはいられない。
 一方、本会の奨学金貸与制度は、周年事業として取り組まれる募金に快く応じた多くの会員の醵金に依っていることも明らかとなる。創立70周年における70万円、90周年における500万円、100周年における2,700万円余は、本会に集う一人ひとりの会員が抱く育英事業を充実する必要があるとの想いの結集の成果ということができる。貸費事業は上述のとおり特別会計に基づいて実行されて、会員納入の年度会費に依拠しないが、年度会費により本会の日常活動が活発に行われることを前提とし、そのうえで周年事業の際の員の多大の貢献により、育英事業に図られるという仕組みとなっている

戦後期における貸費生

 昭和28年度の第1号から平成21年度まで、戦後期の57年間、毎年の貸費生の合計数は延べ260名(うち女子40名)にのぼり、近年は学部時代の貸費生か大学院に入学して新たに貸費生となる場合もあるので、その重複を省いた実員数は264六名(うち女子27名)となる。この間の貸与金額の総計は2億1,044
4,000円で、一方、平成20年度までで総計1億4,874
9,000円が返還済みである。近年においては毎年度約5千万円規模が貸費残額として見込まれる実態である。
 貸費生の出身高作学校別の内訳は、次のとおりで、置賜全域に及んでいる(校名変更ある場合は現在校名による)。単位は名で、( )内は実員数。
米沢興譲館延べ179(実員171)、長井22(22)、米沢東14(13)、米沢工業10(10)、米沢中央9(8)、米沢商業6(5)、南陽5(5)、荒砥3(3)、長井工業3(2)、高畠1(1)、小国1(1)、置賜農業1(1)、九里学園1(1)。このほか、置賜地域以外の学校出身者として、鶴岡工業高専2(2)、山形東2(1)、山形工業1(1)があるが、いずれも置賜地域の出身者となっている。
 また、貸費生の在学校としては、大学では東北大学64名、山形大学38名、早稲田大学14名、東京大学11名をはじめ合計で61大学(239名)、大学院では東北大学院10名、山形大学院3名はじめ合計で八大学院(21名)から構成されている。

貸費生選考までの現状

 現行の奨学金貸費生の募集から決定までの手順は、次のとおりとなっている。募集については、平成18年度から、寄宿舎生募集と一括して募集要項等を決定して、「米沢有為会育英事業の学生募集」として地元の高等学校及び自治体並びに報道機関に周知を働きかけている。また、平成17年度の新ホームページ開設後はネット上での情報提供にも留意している。
 平成21年度募集を例にとると、9月理事会において育英事業募集要項を決定12月に置賜地域の14の高等学校長及び進路指導担当教諭あてに募集内容について周知方(校内への募集ポスター掲示を含む)を依頼すると同時に、3市5町広報担当者あてに自治体広報誌への掲載方を依頼した。併せて、この時期に米沢支部から地元報道機関あてに報道依頼を行っている。3月下旬の応募締切日までに応募者は本部事務局または米沢支部あてに応募書類を提出。提出書類等は、①願書・経済的理由書(所定用紙)、②作文「私の志について」(400字)、③高校全学年の学業成績証明書(行動記録・健康状況等を含む調査書等)及び出身高等学校長の推薦書、④写真1葉、⑤家計支持者年収証明書(例えば給与所得の源泉徴収票の写しなど)。3月28日に教育委員及び教育部関係者による個別面接を実施し、書類審査と面接結果に基づいて選考書類を調整。これに基づき4月27日理事会・教育委貝合同会議において審議して貸費生を最終決定。その後、本部事務局から本人及び保護者あてに通知され、必要書類が提出されて、5月から本人口座に奨学金振込みが開始されている。
選考方法としては、従来、書類審査が中心であったが、平成13年度貸費生の選考時から、3月下旬に米沢市内で教育委員及び教育部関係者による応募者の個別面接を行うこととした。なお、平成17年度貸費生からは応募書類として新たに作文(400字)を加えている。

おわりに

 平成21年2月28日、米沢有為会奨学生OB・OG会が「米沢有為会が行う学資貸給与事業その他の事業の充実及び発展に寄与するとともに、会員相互の親睦を図ることを目的」として設立された。学生時代に本会の奨学金貸与制度のもとで修学して社会に巣立った貸費生OB・OGが、本会の発展に何かの役に立ちたいという熱い気持ちで同会を発足させたものである。来る平成23年度には本会の奨学金貸与制度100百周年の節目を迎えることになるが、今後の奨学生OB・OG会の実り多い活動を期待したい。
 郷土の先覚者我妻榮は、東京帝国大学の学生時代の大正7年6月号から助教授として欧米留学に旅立つ直前の大正12年5月号までの5年間にわたり、『雑誌』の編集実務に関係している(大正10年11月号からは編輯部長)。帰国後の「雑誌」昭和2年6月号への「郷土の会」と題した寄稿の中で、米沢有為会の今日における存在意義は、ただ「郷土出身者の親睦の機関となることと郷土の青年子女の教育に努力することに存在するのではないかと考へる」「さし当り、郷土の・・・教育機関に経済的応援をなし、郷土出身の学資なきものに学資を給する等を最も重要なものとする。・・・今日の若い人々の間には、『郷土』といふ感激的要素は漸次なくなって居る。従ってこれを基礎とする事業は悉く無意味とならざるを得ない。唯郷土の教育といふ意識的目的の為に活動するに於てのみ、その存在意義を有する」と記している。
 本会の奨学金貸与制度は、明治44年創設から今日に至るまで、郷土置賜全域の学生を対象にする育英事業として期待され、実際にも広く置賜全域出身の学生によって活用されてきた。今後とも、置賜全域の自治体及び高等学校をはじめ、さまざまな関係者の支援を得ながら本会として育英事業の充実を目指して取り組んでいく方向において、今や80年以上も前の主張ではあるが、この我妻の指摘は現在でも生きている。
 今後とも現代社会に少子化や人びとの持つ価値観の多様化等々が進む中で、育英事業を取り巻くさまざまな環境は、刻々と変化しつつある。いずれ、新しい環境に本会の育英事業、ひいては本会活動の全体を的確に対応できるようにするためには、本会会員の総員がそれぞれの問題意識をぶつけ合いながら、一致して将来を探ること以外にその解決の途はないであろう。その際の基礎資料の1つとして、本稿が何らかの役に立つことができれば望外の幸いである。
 本稿執筆にあたり、金子芳雄相談役、奨学生OB・OG会からご教示を得たことを記して感謝する。
                  (大滝 則忠記)

〈参考文献〉『有為会雑誌』、『米澤有為会雑誌』、『社団法人米沢有為会々誌』、『社団法人米沢有為会会報』、千葉源蔵編「米沢有為会九十年史抄」『社団法人米沢有為会々誌』復刊第28号(昭和54年6月)、松野良寅「米沢有為会百年の歩み」同前誌復刊第39号(平成元年11月)、同「温故知新-回顧・米沢有為会の百十年」同前誌復刊第49号(平成11年12月)