天地人も間もなく終了しますが、謙信公の「義」の戦いは景勝公にも継承され「直江状」でも示されておりますが、時の権力・力に屈しない精神は、綿々として上杉藩の誇りとしてきたことだと思います。しかし、戊辰戦争においては、会津藩が「ならぬものはならぬものです」という会津精神、即ち「義」の戦いを選んだが、米沢藩は「不戦」を選んだ。
それは何故か。
明治初期、イギリス人旅行家、イザベラ・バードが米沢領に入り、今まで見たことのない景観に感動し、「鋤で耕したというより、鉛筆で描いたようだ」と別天地、桃源郷を発見した驚きを残しています。この景観は米沢領の武士と農民、藩民全員が長い時間をかけ作ったものです。
その美しき郷土を戦火で汚してよいのか。武士(為政者)の「義」で先人が営々として作り上げた美しい景観を、また、住民の安寧を、犠牲にしても善しするほどの「義」なのか、が熱く論じられた末の、「不戦」の判断だったと思います。武士にだけ通じる「小義」を捨て、景勝公の「百姓は国の宝」をよく体現した、斎憲公と重臣たちの賢明な判断だったのではないか。
同時に、斎憲公は「この騒乱の全責任は我一身に在り、いかなる罰も受ける」と上申されたが、世継ぎ問題で米沢藩の存続が危ぶまれた時、幕閣の地位にあった会津藩主、保科正之公(老中)のご支援への恩義、奥方のご実家、ご親族としての、また、隣藩としての友誼に対し、結果として裏切ることになる、斎憲公のご苦衷が察しられる。
真珠湾攻撃における、南雲指令官の完勝を目前にした反転を非難する意見があるが、目的とした戦果をあげた上では、「たとえ臆病の不名誉を受けるとも、犠牲の上の称賛を求めるべきにあらず」、「国からお預かりしている艦船、兵員を危険に晒すことの愚を犯さない」という、責任者として判断であったろう。これは戊辰戦争で示された、斎憲公の「大義」の判断と同じではないだろうか。時代に対応した「義」、米沢精神だと思う。
鷹山公以来、米沢藩は「学」を重んじてきた。茂憲公は第2代の沖縄県令の時代、教育「人を育つる」を大事にされ、私財を投じ、5人の県費留学生を東京に出し、その人達が各方面で沖縄発展基礎を作った。茂憲公のご遺言に「置賜三郡の人民は謙信公以来患苦を共にし、一朝一夕の由緒では無いのだから後世子孫代々に至るまでこれを親愛し、殖産興業教育を勧誘奨励、旧誼を厚くして、永く相忘れるべからず」とあるが、これが将に有為会の精神をよく言い表していると思います。
(以上は講演をお聴きした者の1人としての感想です。講師のご趣旨に反する点があるかもしれませんが、責任は筆者にあります。ご容赦ください)
引き続き、安部米沢市長をはじめ、いろいろな方々からご挨拶を頂戴しました。