米沢有為会会誌第66号(平成28年10月)より抜粋

米沢有為会『文化大学』講演録


<目次>
第16回;米沢信用金庫 会長 種村 信次『無私の人「池田成彬」ソンピンに学ぶ』
第17回;東京大学名誉教授 西村 純 『基礎科学と社会』
第18回;こまつ座社長 井上 麻矢『井上ひさしとこまつ座 そして私』
第19回;ジラルデッリ青木美由紀『明治の建築家伊東忠太オスマン帝国をゆく』

第16回文化大学(平成27年9月26日(土))


 ・演題;無私の人「池田成彬」ソンピンに学ぶ

 ・講師;米沢信用金庫 会長 種村 信次


▼講師プロフィール
 昭和14年生まれ。  同33年米沢興譲館高校卒、同37年日大経卒。  同年米沢製作所(のちNEC米沢)入社、平成元年同社取締役、同10年監査役。  同13年米沢信用金庫監事、同16年理事長、同26年会長現職。  (主な兼職)米沢有為会理事、山形県立大学法人理事他  

(講演概要)


はじめに --父池田成章、ハーバード大学--

 池田成彬を語る時、父の存在は大変に大きく、かつ、 父池田成章自身の地域での時代を背負った活躍は極めて貴重であった。
 そこで、池田成章、池田成彬の生きた時代を俯瞰し、池田親子の治績を見る時、 正に「山形のリーダー」池田成章、「日本のリーダー」池田成彬と言ってよい。
 さて、父成章は優秀な成彬を見抜いて如何に育てるか、かなり手をまわしていて、 慶応からハーバード大に留学。しかし奨学金支給の条件が当初と異なり、 結局父成章に大変苦労をかけている。

三井時代 --コール市場、電力のパトロン、ドル買い、三井改革--

 卒業後日本に帰り、福沢諭吉の時事通信社に入社するが、 福沢との折り合い悪く、 退社して三井銀行に入社する。30歳で足利支店長、 37歳本店営業部長とエリートコースを歩む。 そこでの重要な仕事の一つは日銀からの資金調達であるが、 担保を差し出しても貸さない。 そこで諸井時三郎にビルブローカー業務を開かせ、 手形担保でコールマネーを引っ張り、 日銀に頼らなくとも資金調達が可能となった。 現在のコール市場はここから始まった。
 東京電燈に対する融資は、池田はこれを応諾し、 桂川水力発電所が完成した。 しかし関東大震災で電力事業は壊滅的な大打撃を蒙り、 銀行も容易ならざる事態となった。 そこで池田は、外交官で財務通の森賢吾に東電の財務顧問を委嘱し、 昭和3年、その森が東京電燈の大外債をまとめた。 池田は社長若尾璋八の乱脈経営を正して再建し、 さらに電力会社が水利権や配電競争で政治勢力と結びついて経営を毒していたが、 昭和7年「電力連盟」を結成するなど、 ”電力のパトロン”として池田の役割は極めて大きものがあった。
 日本経済を混乱に陥れたドル買い事件は、 銀行を守るための当然の行為で、 他の銀行と比べて目立って多かったわけでもないが、 三井、しかも池田が批判の対象となった。 これ以前の昭和2年(1927年)、 池田は鈴木商店に引導を渡し、債権者だった台湾銀行は破綻、 連鎖する形で銀行破綻が相次ぎ、 三週間のモラトリアムが実施された。 三井財閥への批判はやむを得ないことでもあった。
 ドル買いは政府が金輸出再禁止など当然打つべき手を 打たず、その非難を避けるため、ドル買いに責任を転嫁した。 こうしたことが政府と財閥に対する不信を深めることとなり、 血盟団事件によって三井の総帥団琢磨、 前蔵相の井上準之助が殺害され、 さらに五・一五事件を引き起こした。 それはやがて二・二六事件にもつながり、 経済も政治も軍部の支配下に置かれる素地を作ったと考えられる。
 血盟団の事件で団琢磨理事長を失った三井財閥は池田成彬を三井合名常務に選んだ。 池田は早速三井合名運営機構の大改革に着手。 三井一族による社員総会を7名に絞り、 内2名は使用人に、一族は直系会社重役から辞任、 さらに財閥持株の公開、財団法人三井報恩会の設立など、 思い切った改革を進めた。しかし、 世間は三井の欺瞞政策としか受け止めなかった。 池田は捨て身の一手、 自らをも含む「停年制」を実施したが、 この三井大改革は評価されないだけでなく、 他の財閥への影響も与えることも出来ず、 日本資本主義の内部改革の機会を失ったと考えられる。

政界時代 --日銀総裁、大蔵大臣、枢密院顧問官、終戦--

 池田は三井を退いて持病の胆石のため大磯の自宅に引き龍っていた。 この時、政局は混迷し、 林内閣は財政の立直しと軍備拡充に対応して財界の協力を求めるため、 この重責を池田に求めた。しかし、 池田は大蔵大臣の激務は耐えられないとして結城豊太郎を推挙し、 結城は池田を日銀総裁になるよう求めた。 昭和12年2月(1937年)、結城豊太郎は大蔵大臣に就任し、 池田は日銀総裁に就任した。
 池田は三井銀行時代から日銀改革が必要だと考えており、 早速着手した。 しかし日銀条例改正委員会の壁にぶつかり在任中は結論に至らず、 12年6月近衛内閣発足の翌月、辞任と共に葬られた。
 政府は13年度の予算80億円(11年度30億円)を編成し、 その大部分を公債発行で賄おうとした。近衛は病身を理由に固辞する池田に対し、 入閣しないなら内閣を投げだすと口説かれ、池田は13年5月、 池田の条件(商工大臣兼務、内閣人事)が承認されて入閣した。 しかし事態は厳しく、軍拡が進む中、 政府の戦争に対する方針も定まらず混乱を重ね、 翌年1月4日、辞表を提出した。
 西園寺公望は池田と親しく、また池田を高く買っていた。 池田は英米との戦争は経済に甚だしい影響を与えるとして、 極力回避する努力をしていた。 平沼退陣後、西園寺はじめ政界上層部は池田内閣を構想したものの、 軍部の強硬な反対で実現しなかった。池田は、 第三次近衛内閣の時枢密院顧問官となっていたが、 太平洋戦争への突入は池田の意に反し、 寝耳に水の状態で行われた。
 池田は「財界回顧」の中で、 「8日の朝4時に電話で各顧問官に朝の7時から委員会があるから来いというのです。 病気で大磯で寝ていたが直ぐに上京しました。委員会は半ば済んでおり、 島田海軍大臣は『もう今時分はハワイをやっておりますよ』といっていました」と書いている。 池田の心境は、戦争を始めた以上負けてはならないし、 できるだけ犠牲の少ない内に終結させなければ成らないとの思いであった。 天皇はじめ重臣たちも戦争の長期化には反対であり、 天皇は「終戦については機会を失しないよう十分考慮せよ」と東条首相に命じておられたものの、 東条首相が戦争終結にはあまり意を用いていないことにすこぶる気がかりであった。
 ポツダム宣言受諾を議題とする枢密院会議は、 8月15日の朝宮中の防空壕内で開かれた。 昭和12年夏の支邦事変から足かけ九年の長い戦争は日本の敗北に終わり、 すべての努力が水泡に帰したことをみんなが肌で感じていた。 本土決戦により、最後まで戦い、講和条件を有利にしようと主張した陸軍を押さえ、 前日の御前会議で、「自分はいかになろうとも、 万民の生命をたすけたい」と聖断をくだされた天皇のお気持を伝え聞いた池田は心の中で泣いていた。

おわりに --父の泪--

 「自由と規律」を著した慶大教授池田潔は、父池田成彬の回想録に「父の泪」という一文を書いている。 三男豊(ケンブリッチ大卒)が一兵卒として召集された。 東条首相は池田に対し政治休戦の代償として東京勤務にするとしたが、 池田はこれを拒否。結局豊は中国で戦病死したが、 その経緯と父の清冽な処世が描かれている。 この胸にズンと来るような一文は、 戦後日本人が失ったものを思い出させてくれる。
 明治・大正・昭和(戦前)のかつて経験しない時代にあって、 「人間としてどう生きるか」を尺度として、 時代に流されることなく生き切った人、 それが池田成彬であったと思う。
 これからの日本は多くの極めて不都合な問題が確実に顕在化してくる。 当然大きな、しかも厳しい選択と変革を迫られる時代に入ってきた。 この時代のリーダーとなることは権力や地位のためではなく、 自らの選択によって国民に苦渋の選択をせまる覚悟を持つ人材でなければならない。
 池田成彬は一人のリーダーとして、 「そのような変化の時代をどう生きるのか」を教えてくれている。


[参考文献]
【池田成彬傳】西谷彌兵衛 著(日本財界人物傳全集第三巻)
【池田成彬傳】今村武雄 著(慶応通信社刊)

第17回文化大学(平成27年11月13日(金))


 ・演題;基礎科学と社会

 ・講師;東京大学名誉教授 西村 純


▼講師プロフィール

 1927年生
 1943年:米沢興譲館中学4年修
 1943年:旧制第二高等学校
 1945年:東北帝国大学理学部物理教室
 1948年:理研仁科研究室 助手
 1950年:神戸大学文理学部物理学科 助手
 1956年:東京大学原子核研究所 助教授
 1965年:東京大学宇宙航空研究所 教授
 1980年:国立大学共同利用機関宇宙科学研究所 教授
 1988年:同研究所 所長
 1992年:所長退官
 1987年:東京大学名誉教授
 1992年:宇宙科学研究所名誉教授
 仁科研究室以来宇宙放射線(宇宙線)の研究を推進、  宇宙科学研究所では観測用大型気球の開発に携わる。
▼賞

1967年:仁科賞
1991年:紫綬褒章
1998年:勲二等瑞宝章 他多数

(講演概要)


私が米沢の興譲館中学に転校したのは昭和17年のことで、 太平洋戦争の2年目であった。その前、私は同じ県内の酒田中学にいたが、 父が仕事の関係で米沢に転勤になった。 興譲館の千喜良校長が父に「私が鍛えてやるから」と云うことで、 興譲館に転校することになった。
 講堂には米沢出身の南雲忠一中将の写真が飾ってあった。 当時は知らなかったが、南雲中将はハワイ攻撃の司令官であり、 私が転校したのはミッドウェー海戦の頃で南雲中将はその司令官であった。 ミッドウェー海戦は失敗に終わり、 南雲中将はその後サイパン島守備の海軍の司令官となっている。 サイパン島は日本の絶対国防圏の要衝であり、 ここからB29が発進すれば東京は爆撃に晒されることになる。 しかし、この島は昭和19年にアメリカ軍の手に落ちて、 南雲中将は自刃した。
 興譲館中学では中山豊(中山内科病院)、 濱田耕一 (濱田酒造)、 松野良寅(山形大学名誉教授)君等生涯にわたる友人を得ることになった。
 昭和19年になると、旧制二高を出て東北大に進んだが、 その際、仙台の興譲館のお世話になった。 広瀬川のほとりの良い場所であった。 興譲館の食堂の隣は集会場で、 上杉藩時代の火縄銃に加えて、大部の寺田寅彦全集も置いてあった。 全集は全部を重ねるとは1m以上の量であっただろうか…。 大学から帰ってきては毎日、寺田寅彦の随筆を読んでいくうちに、 物理学の面白さが分かってくるようになった。
 サイパン島がアメリカの手中に落ち、 日本各各地が爆撃にさらされるようになり、全巻を読みおわっところ、 仙台は7月10日に空襲に見舞われた。約100機のB29が襲来し、 市の中心からうず巻状に焼夷弾を投下した。 興譲館は中心から離れているので、始めの内は、 遥か彼方に火の手を見ている感じであったが、 その内に近づいてきて、 我々の付近にも焼夷弾が落ちてきた。運悪く、 その内の一かたまりが命中して、 建物は一瞬にして物凄い勢いで燃え上がった。 住処を失った我々はしばらく流浪の民となるのだが、 それから数年を経て仙台の興譲館は再建されることになった。
 この間、米沢や東京で昔の友人と集まりあったりしていた。 上杉さんは著名な宇宙工学者であるが、私も同じ宇宙科学研究所に居たこともあって、 米沢との付き合いますますは深くなった。
 仙台の興譲館で読んだ寺田寅彦は物理学者であるが、 夏目漱石との付き合いが深く、 時々夏目漱石の小説のモデルとなって登場している。 東大に入学して熊本から上京した三四郎は、 郷里の知り合いの東大の物理教室の野々宮さん(寺田寅彦)を訪ねている。 野々宮さんは物理教室の地下室で光の圧力の研究をしている。 漱石は小説「三四郎」の中で、次のように書いている。
 「……それで穴倉の下を根拠地として欣然としてたゆまずに研究を専念にやっているからえらい。 しかし望遠鏡のなかの度盛がいくら動いたって現実世界と交渉もない事は明らかである。…」  これは1900年代の初めに書かれた文章で『光の圧力の研究などは、 世間と関わりがないと』と漱石は断言している。 しかし、約100年を経た現在、 太陽の光の圧力を利用して木星に向けて「イカロス」と言う人工探査機が飛翔している。 漱石の予言が外れて、100年を経て光の圧力が実用に供されたことになる。

一体、基礎科学と社会との関わりはどのようなものなのか?

●18世紀の産業革命でイギリスは強大な力を得て世界に君臨することとなった。 その産業革命を齎したのは、 それ以前に、星の動きを探求したガリレオやニュートン力学、 熱がどのように力となるかを調べた熱力学などを基礎に置く蒸気機関と機械工業の発展であった。
同じように
●19世紀の電気工学の発展は前世紀の、 電磁気の基礎研究のMaxwellの電磁力学に基づいている。
●物質の理解を深め、 根源を求めて研究した原子や原子核、 量子論が20世紀の新しい社会を生み出してきた。
●現代は人工知能やロボットなどの出現が社会の変革をもたらしているが、 これまでに研究されてきた、物性論や、情報理論、宇宙論…。

などを基礎に発展している。

 三四郎の光の圧力、今年のノーベル賞の「ニュートリノ」の研究に見られるように、 基礎科学の目的は本来自然現象の本質を深く理解することにあって人間の生活に役立たせることが目的ではない。 その目的は人間の知の地平を広げて知性を豊かにする点にある。 このような観点からいえば基礎科学は哲学、 芸術、文学などの学問分野に似ているといえる。
 しかし、 基礎科学の発展は数十年ないし100年後の社会の大きな変革を齎して来た点が重要である。
 具体的な例を見るために、 今回の講演では過去約100年間のノーベル賞の成果がその後どのように社会に反映したかを述べた。 その詳細を述べるには紙数を要するので、 有為会のホームページに講演の時のファイルを載せて頂いた。 詳しくはそれをご覧い頂けたらと思う。
 現代の社会に大きな影響力を齎している原子力発電やそれに関係する事柄は物質の根源を求めて1911年代に発見された原子核によるものである。 発見したのはラザフォードで、
 「原子核は将来何の役にたつか?」
との質問に、彼は「原子核は純粋に学術的に物質の根源が何であるかを示すものである。 将来にわたって人間の生活に役立つ事はないと断言できる」と述べた。
 これは基礎科学が手近な役に立つという観点から評価するものでなく、 またそのような未来予測は非常に難しいことを示す良い例である。
 基礎科学の発展は未来の大きな社会の変革をもたらす。 その意義を理解している社会は将来の発展が期待されることになると思われる。


第18回文化大学(平成28年4月24日(日))


演題;井上ひさしとこまつ座 そして私

講師;こまつ座社長 井上 麻矢


(講演概要)


 私がこまつ座に入ったのは、父から経理の方が今度いなくなるので、 経理をしてほしいという電話で誘われたのがきっかけです。 今思うと父がこの世からいなくなる二年半くらい前のことだったと記憶しています。
 その頃私はやっと取得した別の国際免許をいかして仕事をするために転職先も考えていた矢先、 この話を聞いた時は、ちょっとびっくりしました。
 父が私に何か頼みごとをしてきたという記憶はなく、どちらかと言えば父と母の離婚という家庭環境の中では、 私はいつも母側の娘という意識が父にあったからだと思います。
 びっくりしましたが、何より初めての頼みごとであったこと、 その当時勤めていた会社の社長さんが大変もののわかった素晴らしい経営者で 「麻矢さん、一生に一度は親のいう事というのはきくものよ。」と諭してくださった事も大きく、 とりあえず父には「経理というのは向き、不向きがあるものだから、学校に行かせてくれないか?」 とお願いしました。
 父は経理学校のお金を喜んで出すと言ってくれまして、 しばらく勉強と仕事を両立させて返事は保留にしていました。
 本当に経理に適した人間かが、自分ではわからなかったからです。
 勉強してみて初めて、自分がいかに数字に苦手意識があったかを思い知りました。 というのは経理の勉強は本当に楽しかったからです。 とことんまでお金をきれいに仕訳していく。 数字自体に人格があって、 しかるべきところにそれを入れ込み、 会社という仕組みの中で整理整頓していくというのはとても楽しい作業でした。
 経理は常にバランスシートですから、 作家の家というアンバランスな家庭で育った自分にはなんとなく安心できる勉学であったとも言えます。
 自信をつけてこまつ座に入ったのは2009年4月、 それから三か月はお金の事だけ、そして帳簿の事だけを見て過ごしました。 そして正直少しだけ後悔しました。 累計赤字が多く、単発の黒字は出るものの、 老舗劇団の内情は大変なものだと思いました。 こんな不安定な会社に勤めていて大丈夫だろうか…不安ばかりでした。
 しかしその一方で、父に信頼される喜びはありました。 一度父に借金について意見したことがあります。
 「今ならばわずかな財産をすべて現金化すれば借金は返せるし、 社長(私は父を会社ではそうよんでいました。)も好きなところに好きな時にだけ戯曲を書けるのでは?」 とこまつ座を閉じる話をしたことがあります。
そうしたら父ははっきりと私に次のように言いました。 「こまつ座があるから芝居を書いてくることが出来た。 いわばこまつ座には恩があるのです。 自分が沢山の方に迷惑をおかけして芝居を作ってきた経緯を考えると簡単につぶすことは出来ません。」なんとも父らしい返事でした。
 私は今日現在までこの言葉をお守りにして生きてきたと言えます。 その後、父は一本の新作を戯曲として書いた後、 あっという間にあの世に逝ってしまいました。
 父から教わった事は沢山あります。例えば、 この魑魅魍魎とした演劇界の中で生き抜くために父が私を励ましてくれた言葉の数々は今でも私の生きる上での大きな物差しとなっています。 演劇というものをどう捉え、そしてその中で決して一人で出来ないこと、 一人で出来ないことだからこそ演劇は素晴らしいのだと、 言葉を変えて伝えてくれたことを今とても感謝しています。
 私は今日も父の遺してくれた言葉に後押しをされて生きています。
 父はもうこの世にはいないのですが、 よくファンの方から言われるのは 「こまつ座があるから井上さんはまだ生きているみたいな錯覚がするのよ」 と…。
 「自分という作品を作っているつもりで生きていきなさい」 と今も背中を押してくれている気がしてなりません。


第19回文化大学(平成28年7月17日(日))


 ・演題;明治の建築家伊東忠太オスマン帝国をゆく

 ・講師; ジラルデッリ青木美由紀


 米沢生まれの伊東忠太(1867~1954)は、 明治ももうすぐ終わろうという頃、 世界を一周する旅に出た。
 1902年3月29日に東京・新橋を出発して中国・天津に渡り、 中国国内旅行のあと、 東南アジア諸国、インド、スリランカ、オスマン帝国 (現在のトルコ、エジプト、シリア、パレスチナ、イスラエル、レバノン、ヨルダン)を巡り、 欧州各国と米国経由で帰国した。じつに、 三年三ヶ月の旅である。
 物見遊山ではない。それどころか、 費用を明治政府に賄わせた、 官費旅行であった。
 公的な名目は、「中国・印度・土耳其留学」。 東京帝国大学で教授昇進のために不可欠とされた不文律、 「洋行」である。しかし、誰もが望む西洋でなく、 忠太は「東洋」行きを懇請した。 日本建築の源流を突き止めるには、東洋を見るしかない、そう思い極めていた。
 それには理由がある。博士論文で書いた『法隆寺建築論』。
 法隆寺中門の柱には、ギリシャ建築と同じエンタシス(胴張り)がある。 それを根拠に、日本最古の建築・法隆寺の起源はギリシャ、と説いた。 忠太の願いは、これを実際に歩いて証明することだった。
 大胆な学説の背景には、新興国明治日本の切実な事情があった。 当時、西洋の学界ではギリシャ・ローマの古典主義が王道。 極東の島国、日本など、建築史の俎上にものぼらない。 憤慨した忠太は考えた。日本建築の源流が、 西洋建築で最上位のギリシャと証明できれば、 日本建築の価値も自動的に上がるはずだ。
 そこまでして西洋に自分を認めさせる必要が、 当時の日本にはあったのだった。
 忠太がイスタンブルに到着したのは、1904年5月8日。
 この地でオスマン帝国のモスクやビザンチン時代の教会を訪問、 博物館でシルクロードの出土品を研究し、 オスマン帝国の首都を行き交うさまざまな人々を観察した。 当時のスルタン・アブデュルハミットニ世から、 メジティ三等勲章も拝領した。 これは現在米沢市立上杉博物館に保存されている。
 そして7月末、イスタンブルを鉄道で出発し、 内陸の旅へ。アンカラ、エスキシェヒル、キュタフヤ、アフィヨンカラヒサール、コンヤ。 ほんとうは、バグダッドまで旅を続けるはずが、 エーゲ海へ方向転換をしたのは灼熱と臭虫に悩まされたせいだった。 エフェス、ミレトス、ディディムで初めてギリシャ建築を実見。 イズミルから地中海へ漕ぎ出し、クレタ島、アレキサンドリア、カイロ、 ルクソール。カイロでは、かつて見ない「壮大さ」を経験した。 同時に、建築様式の重層的な成り立ちに気づき、 「イスラム建築」「東洋建築」の根本を問いはじめる。
 パレスチナヘは、敵国ロシアの船に乗った。乗客・乗組員一同戦々恐々、 忠太は注目の的となる。テルアビブ、イェルサレム、死海、ダマスカス、ベイルート、アレッポ、タルススからトロス山脈を越え、 イスタンブルヘ戻った。
 この旅は、忠太に視点の転換をもたらした。
 日本文化の源流が西洋古典のギリシャだという自説はいつのまにか重要でなくなり、 新たな世界観を獲得する。  1909年に発表された通称「建築進化論」は、主流から枝分かれする傍流という、 従来の文化の流れの常識とは、まったくちがう考え方を提示していた。 忠太は、幾つもの大きさの異なる円が重なり今い、 ネットワークを形成しながら広がる文化の姿を示したのである。
 この世界は、一つの文化的強者を中心に動くのではない。 お互いに影響関係を及ぼし合う、数知れない異なる文化、 その多様性からなりたっている。
 世界旅行の果てに忠太がたどりついたこの世界観は、 グローバリゼーションの時代といわれる今、ローカル(地方)の独自性が重要であることを、 現代に生きるわれわれに語りかけてくれる。



伊東忠太博士の曾孫(講師の左隣)も出席されました