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米沢有為会会誌・創立120周年記念号(平成21年)より
興譲館寄宿舎開設100周年記念 舎生OB寄稿文集

「縁」の兜

亀岡 祐一(仙台興譲館 1984年(昭和59年)入舎)



 医学部在学中、私は仙台興譲館で6年間お世話になりました。
 寮長を努めた大学3年生の時(昭和62年)には、角五郎一丁目にあった旧寮から現在の角五郎二丁目の寮への新築移転という、仙台興譲館寮の歴史的瞬間にも立ち会いました。
 旧寮から新寮への引っ越しは、当時の館長の中條仁先生(前米沢有為会仙台支部長)のご指導のもと大学の夏休みを利用して行われましたが、目前に控えていた試験のため私だけが旧寮に残り、ひとり徹夜で勉強したことが昨日の事のように思い出されます。がらんとした木造の旧館の開け放した窓から、中庭の草木の匂いが漂い、「兵(つわもの)どもが夢の跡」という芭蕉の句がなぜか脳裏に浮かび、自然に涙がこぼれました。私たちが住まったころには老朽化が進み、先輩の部屋に皆が集って飲んで騒いでいたところ、床が抜け落ちてしまったり、冬には壁の隙間から雪が入り込んでいて、朝起きると廊下にところどころ白い山が出来たりしていたこともありました。それでも、旧寮は私たち学生にとっては、夢と希望が満ち溢れる青春のベースキャンプであり、お国なまりを気にせずに気心の知れた仲間と過ごせる空間は、文字通り第2故郷でありました。
 もちろん、寮が新築移転しても、長年培われた仙台興譲館の雰囲気が変わることはありませんでした。その大きな要因のひとつは、新寮を設計されたのが興譲館高校OBである御供政敏先生(現仙台興譲館館長)だったからだと思っております。御供先生は寮の行事には欠かさず参加して下さり、我々のことを予てから大変良くご理解下さっていました。そのことが、新寮の設計に反映されたことは想像に難くありません。
 旧寮とは対照的な、打ちっぱなしのコンクリート壁が印象的な新寮が徐々に完成していく様を見て、在寮生は一様にそこでの新生活を想像して心を踊らせました。「モノトーンな壁にアクセントをつけよう」と、御供先生と私をはじめ数人の寮生が一緒に黄色く塗った内壁のボルト孔は、きっと今でも色槌せずに残っているに違いありません。
 仙台興譲館で過ごしたことは、その後の私の人生を大きく変えることにもなりました。
 平成10年、宮城県では初めてとなるホスピス(がん患者の緩和ケアを行う専門の医療施設)が、財団法人光ヶ丘スペルマン病院に開設することになり、その設計を行ったのが御供先生でした。当時仙台市内の病院で内科医として働いていた私は、御供先生の家に遊びに行った時にたまたまその話を伺い、強い関心を持ちました。先生が病院に私を推薦して下さったこともあり、開設と同時C仏はホスピス専任の医師として働き始め、現在に至っています。
 大河ドラマ「天地人」の主人公、直江兼続公は、兜の前立てに「愛」の1字をかかげ戦場を渡りましたが、もしも私が自分の兜の前立てに文字をあしらえるとすれば、迷わずに「縁」を選ぶでしょう。高校卒業以来、米沢を離れて長く仙台で暮らしてきましたが、今の私があるのは全て故郷米沢と、米沢に縁(ゆかり)のある方々との縁(えにし)があったからに他ならないからです。
 私にとって仙台興譲館寮は、まさに「縁」の兜そのものです。



写真は、新寮の地鎮祭の際のものです。当時、寮長を引き継いだばかりで、一緒に前寮長(武田政幸氏前列右)、前々寮長(木村浩二氏後列左)、中條仁館長(前列中央)、寮母の山崎さん(前列左)が揃って写っている貴重なショットです。筆者は後列右です。


「八年間」の在寮期間

四釜 淳悟(仙台興譲館 1999年(平成11年)入舎)
 
 「置賜出身の男子学生なら人寮可能らしいけど、どうせ興譲館高校出身が暗黙の条件なんだろ。」今から12年前の平成9年3月、長井高校生であった私は東北大学理学部への進学が決まり、故郷である長井市から仙台市に移り住むことになりました。その際、生活の基本である食事について大変心配しており、当初から食事付きの学生寮を希望していましたが、その時点で「仙台興譲館」の存在は知ってはいたものの、その「暗黙の条件」が気になり、選択肢には入れませんでした。実際当時の募集案内の在寮生の出身高校の欄には「米沢興譲館高校 20名」とだけ書いてあったのを覚えています。そんないきさつで、大学の学生寮に入寮しましたが、入ってみるとそこは大学で勉強していく上で支障があると言わざるを得ない場所でした。そんな環境の中でしばらく生活をし、次に興譲館寮を思い出したのは2年後の平成11年のことでした。「こうなったらあの『暗黙の条件』を壊してやる。」と思って寮の門を叩き、入寮させていただくことになりました。ただしそれ以前にも私のような入寮者もいたらしいので、「暗黙の条件を壊して」はいないのですが、現在私が「お前なんでここに居るの?」的な空気にものすごく無頓着になったのはこれに起因するものと思われます。しかし、せっかくだからと他の長井高校出身の同級生らも入寮させ、さらに翌年以降などは高校への勧誘活動も行った結果、長井高校出身者が入寮してくれただけでなく、芋づる式に他の出身者までも続々と入寮してくるような寮となったのは、とても嬉しい限りでした。大学卒業とともに私は退寮いたしましたが、就職先となったのが仙台市内の企業であったことから、その会社を平成19年に退職し帰郷するまで、食事だけは引き続きいただいていました(当然食費+αは支払ってですが)。しかし、食事面でお世話になったことに加えて、特に就職してからの日々は、1日がただ「仕事→帰宅→就寝」の生活ではなかったことが私の精神面にとってとても大きかったということは否めません。
特に誰かに深刻な悩みを相談したということではなく、寮での食事は、仕事から離れた場所でバカ話などする時間を与えてくれ、それが毎日のようにあったからこそ、「社員がすぐに病んでしまう」「人材の使い捨てをしている」とたたかれる会社で何年もやれたのだと思っています。当時の寮母であった森良子さんをはじめ、仙台興譲館をとおして私と関わっていただいた全ての方への感謝の言葉も見つかりません。8年間、大変お世話になりました。