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米沢有為会会誌・創立120周年記念号(平成21年)より
興譲館寄宿舎開設100周年記念 舎生OB寄稿文集

東京興譲館の思い出 昭和41~42年

 山 田 幸 生(東京興譲館 1966年(昭和41年)入舎)



私は昭和41年4月に西大久保寮に入舎し、その年の秋に調布市仙川寮に移転、その後、通学時間が長くなったこともあり、翌年7月ごろには退舎した。従って、東京興譲館にお世話になったのは1年数ヶ月であるが、その短い間に多くの体験をさせていただき、また、入学直後の慣れない東京での生活に多くの先輩や後輩に助けていただいた。この間のいくつかの思い出を記憶を辿って記してみたい。
 私の寮生活で最初に思い出すことは、寮生およそ5名で結成したハワイアンバンドである。スチールギターにのめりこんでいた先輩がリーダーとなってバンド(名称:リリー・アイランダース)を結成し、私は誘われてウクレレを演奏することとなった。上手下手は別として、2年目の夏には米沢の納涼祭りの際に、松ケ岬公園のお堀に浮かべられたステージで演奏したことが記憶に残っている。私は数年前より「六十歳の手習い」でバイオリン演奏を習い始めが、ハワイアンバンドの体験がこの年齢で習うことへのためらいを吹っ切ってくれたのかもしれない。
 西大久保の寮からは、多くの寮生と連れ立って羽村に行き、多摩川の河原で芋煮会を行った。中央線の電中に大きな鍋を持ち込んで物珍しがられたが、少し恥ずかしかった記憶もある。米沢出身者は秋に芋煮会を行わないと冬を迎える心の準備ができないというのが普通ではないかと思う。私は就職してからも、つくばの研究所時代には毎年、近所の仲間と茨城県内の適当な河原で芋煮会を開催した。また、2001年に電気通信大学に赴任してからは、毎年、研究室の学生らと多摩川や近所の公園で芋煮会を開催している。最近では卒業生も楽しみにしており、研究室の同窓会の様相を呈している。
 西大久保の寮では、近所の看護学生寮(睦寮)の女性たちとフォークダンスや合同ハイキングを楽しんだこと、先輩らと一緒に歌舞伎町の寿司屋に入りぼられたこと、仙川の寮では、大人の経験をさせてやろうという先輩の好意で、1年生の同輩数人と共に寮の最寄り駅である仙川駅近くのバーに連れて行ってもらったことなども新鮮な体験として鮮明に思い出す。
 
 
 
看護学生寮(睦寮)の女性たちとの合同ハイキング
  (高尾山)の集合写真(昭和42年5月14日)



合同ハイキングで行ったフォークダンス。
最近の学生がフォークダンスを踊るなどとはついぞ聞いたことがない

現在、私は電気通信大学の教員を務めているが、奇しくも電気通信大学は東京興譲館と同じ調布市にあり、通学に利用した京王線を通勤に利用している。これも何かの縁であろう。さらに、電気通信大学の初代学長は物理学者の寺澤寛一氏であるが、寺澤寛一氏は何と米沢出身であることを最近知った。寺澤寛一氏は、名著「自然科学者のための数学概論」を著した高名な物理学者であり、この本は私か学生時代に一生懸命勉強した本である。Wikipediaで「寺澤寛一」を検索すると、
・1882(明治15)年7月15日米沢藩王寺澤兵吉の次男として山形県米沢市上矢来町に生まれる。
・興譲尋常高等小学校から米沢中学興譲館大学。
・上京し1902(明治35)年(19歳)大成中学卒業後、(20歳)旧制第一高等学校へ入学。
・1905(明治38)年9月(23歳)東京帝国大学理科大学に入学し……
とあり、その後、1969(昭和44)年に86歳で死去されるまで、輝かしい経歴が記されている。興譲館を卒業されてはいないが大先輩であり、米沢出身の大偉人である。寺澤寛一氏のことはほとんどの方がご存知ないと思い、この機会に紹介させていただいた。
 以上、思いつくまま記述させていただいた。
              (現電気通信大学教員)


東京興譲館寄宿舎時代の思い出

 相 馬 茂二郎(東京興譲館 1974年(昭和49年)入舎)
 
9月下旬の某日、マニラ出張から戻った翌日に先輩の菅野さんから「もう原稿の締め切りが近いですよ」と寄稿の催促の電話を頂きました。頭の中は出張後の仕事の段取りや仕組みづくりでいっぱいになっていますが、それを振り切り、お世話になった興譲館寮開設100周年と米沢有為会創立120周年の記念すべき会誌に思い出を書く機会を頂いたのだから駄文であっても書かなくてはとの思いで筆を執っています。
 当時を思い起すために目を瞑って、「東京興譲館寮の思い出は」と記憶を辿ってみました。いろいろな瞬間、瞬間のシーンが次々と入り乱れて心の中に浮かんできます。30年以上経っても鮮やかに思い出の場面が浮かんでくるものもあれば、あやふやな断片しか浮かんでこないものもあります。でも嫌な思い出が出てこないところを見ると、総じて楽しく良き青春時代のひと時を過ごさせてもらったのだなという暖かな気持加わいてきました。それと同時に、当時と現在の自分とを比較する気持が沸き起こり、ああ自分も齢をとったものだなというなんともいえない感慨が沸いてきました。大学を卒業して三十数年、わが人生に悔いありやなしや。ああすればよかったこうすればよかったと心の中に浮かぶものが沢山出てきます。でも、この寄稿は私の半生の反省記ではありませんので、もう1度東京興譲館寮の思い出に心を戻すことといたしましょう。
 最初心に浮かんできたシーンは毎年恒例で11月下旬に行われていました寮祭のシーンです。仙川の駅前から寮までの花笠踊り。山形から取り寄せた藁の笠を被り白地に赤や青や黄など色とりどりにデザインされた浴衣をまとい、カセットから流れる花笠音頭に合わせ、寮生皆がたくみに踊りました。踊り開始に際して最寄の仙川駅前で日本酒を身体に浴びて大声で口上を切り、威勢よく踊りを開始したと記憶しています。そして無事寮まで踊り続け、たどり着いてなぜかとても嬉しい気持になりました。寮祭期間中は、共同の部屋を利用して寮生が自主的に居酒屋やスナック、喫茶店が開いていました。都内の女子大から友達を連れてくる寮生もおり、普段の男だけの寮とは雰囲気が一変し楽しい気持で一杯でした。夕方から開始するダンスパーティーはとても賑やかなものでした。首尾よくガールハントに成功する寮生もいれば、泣く泣く恨めしげに首をうなだれる寮生もいたことを思い出します。
 
 
 
寮祭の折の花笠踊り

日常生活は、真面目に大学に通学する寮生、寮で時間を過ごす寮生、アルバイトに精を出す寮生、サークルやクラブ活動に張り切る寮生といろいろな人がいたように記憶しています。でも金曜日や土曜日の夜になれば皆仲良く酒盛り。誰彼の部屋に集まり、車座になって政治を議論し哲学を語り合い、好きな女の子ができたとかいう話しもありましたが、殆どが失恋の慰めのほうが多かったように記憶しています。
 こうやって記憶をたどっているうちに、当時の懐かしい顔顔顔が浮かんできました。歌がとてつもなく下手なのに酔うと直ぐ歌い出す安部善明さん(現三十郎さん)、時代遅れの歌をよく歌っていた。心の中に秘めたる思いがあったような気がします。小さい身体でも大きな笑い声で周りを元気付けていた後藤仁君。かれの失恋の日に近くの居酒屋「若葉」で酔っ払って動けなくなったところを、私か背負って寮まで運んであげた。私の首筋に涙と鼻水と口から吐き戻したものをかけたのを覚えているだろうか。青木君は、後藤君と相部屋で私が酔っ払って帰ってくると怖がっていつも部屋に鍵をかけて身を縮こめて隠れていた。鍵を壊して部屋に入り、逃げる後藤君と青木君の2人の足首を私か右の手と左の手にそれぞれ掴んで、「力はペンよりも強し」などと吠えながら同時にぐるぐる振り回したら2人の身体が宙に浮いて回った事を思い出しました。ここで謝ります。ごめんなさい。木村君は普段は真面目によく勉強していた。さすが東大生、でも酒の誘いには付き合いが良かった。先輩の小野庄司さん、苔博士で好きな女の子に苔の説明ばかりしていた。でもよく明け方まで勉強なされていた。小野さんと東京教育大学コンビを組んで相部屋だった森谷君、マイペースを決して崩さなかった。古山さんとはよく近所の鳥九で美味しい焼き鳥を食べながら熱爛を飲んだのを覚えています。コンパでは渋い声で旅姿三人男を歌いとても上手でした、花札でにぎやかだった鈴木浩美さんや尾形さん、でも直ぐに静かになり、遅くまで勉強なされていた。司法試験を通る人は人知れず勉強をするということを知りました。島倉さんや後藤さん、遠藤さんなど錚々たる先輩もいらっしゃった。私と2年間相部屋であった鈴木和行さん、明治大学の先輩でもありお世話になりました。フェンシングで毎日夜遅くまで練習の様子でした。バイトの親分有路くん。就職してから直ぐにバイトの経験を活かして活躍していると聞きました。真面目なのに隠れたユーモアの寺島君、後輩では吉田健一君、高校のクラブ活動の後輩でもあり、随分一緒に遊びました。大学に入学すると直ぐにガールフレンドが出来、さすが二枚目と他の寮生をうらやましがらせていた。いつも彼女と夜遊びして寮に戻ってくるのは深夜だった。山口清樹君には囲碁の手ほどきを受けた。1人でテントを背負い丹沢に出かけては山篭りしていた。前山君は私と同部屋になった。真面目な好青年。「いちご白書をもう一度」に感化されてか学生運動にも出かけていた。そういえばロマンチストな土屋寛くん。米沢の漢方の耕一郎くん。そして、大物なのか鈍感なのかよく分からなかった大友君、その後8年間も大学に通ったとか。それから奇想天外な遠藤洋一君もいた。長持ち歌の上手い志村ケンに似た緒方くん。それからプレーボーイを自認する土屋君と皆川君の二人組み。そして、正義感の強い宮内良治くん。普段は力の抜けた感じであったが、男気は強かった。そして、20台後半で急逝してしまった鈴木実くん。高校時代から私の友人で、よく議論した。ガッツがあり、私とはよきライバルだった。筋を通し、勇気のある人だった。長生きしていたら間違いなく社会で活躍していたと思う。残念だった。
 こうやって思い起こしていくうちに当時の皆の顔ばかりか、声や息遣いまで思い出してきました。懐かしい。
 私の頭も随分と白くなりました。もう55歳になりました。沢山の困難にも遭遇しました。腕白坊主的な性格はまだ残っているようですが、少しは大人になったと思います。
 共に寮生活を送った皆さん、いかがお過ごしでしょうか。人生はまだまだこれからです。頑張っていきましょう。
        (明治大学政治経済学部卒業、現在 経営コンサルタント)