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米沢有為会会誌・創立120周年記念号(平成21年)より
興譲館寄宿舎開設100周年記念 舎生OB寄稿文集

山形興譲館寮の思い出

雨 田 秀 人(山形興譲館 1956年(昭和31年)入舎)

 山形興譲館寮は、昭和31年に、山形市内で病院を経営しておられた大先輩の篠田甚吉先生が中心になって創設なさって、お世話くださった。山形大学に通う学生のための寮であった。
 この寮で、同じ釜の飯を食べ学んだ私達は勉学面でも、人格形成上も、身につけた事は多かったし、思い出も沢山あるが、その中から1、2ご紹介してみることにする。
 同室生は、伊藤俊幸君とたった。彼は、現在酒田市に伊藤音楽院を開き、数多くの音楽家や愛好家を世に送り出す傍、交響曲から歌曲、童謡まで幅広い作品を中央へも発表している。山形交響楽団を立ち上げたのも彼で、宮城フィルの指揮を行うなど、地方から中央に発信する音楽家として注目されてきた。
 当時は、山大特設音楽科の学生でありながら、小姓町のキャバレーのバンドマンとしてヴァイオリンやアコーディオンを弾きこなし周辺は何時も音楽があった。彼の音楽テストで、ベートーベンのヴァイオリンソナタ第5番「春」等の練習も部屋で行ったが、ご存知のあの爽やかなメロディがスムーズに進行するよう、私も一役買い、ピアノ代りに口ピアノで曲を奏で続けたものだった。実際に聞こえていた音はどうあれ、「春」の流れるような楽しさに、小鳥のさえずりや草花が咲き乱れる様を思い描きながら、飽きることなくラララ…で付き合った。また子どものために作曲した「鳩笛」は、今も広く歌われているという事だが、50年経って口ずさんでも新鮮な響きがある。
 自分の取り組むべき学習のため、独り机に向かうのは当然として、美術の仲間の創作場面に立ち合い、意見を求められ共に考えたり「条理」だ「非条理」だと口角泡をとばす議論に引き込まれたり、目ざす方向や窓口は違っても共に学び合った。朝野球や早朝登山、囲碁、将棋、麻雀の大会等も多く、勉学も遊びもみんな一緒の寮生活だった。
 近隣の方々との交流も密で、寄って来る子ども達とは一緒に宿題をしたり、遊んだりする事も多かったから、秋の家族芋煮会には、次々声がかかり、ご馳走になったものだった。
 1杯50円の中華そばは、寮生特価45円のかも付けで、20杯になるとご飯だけ持ってくるよう諭され、寮の小母さんが取り分けてくれている丼飯を抱えて行くと、そばのスープと漬け物をご馳走になり、千円以上払わないよう計らって貰った。
 後半になって風呂も新設され、銭湯代10円が助かったが、「湯からあがった後、必ず薪をくべて行くのは高橋勉君だけだよ。」と小母さんに教えられ、共同生活でのふけさめのない日常行動のあり方や気配りの大切さを小さな事がら1つ1つ教えていただいた。
 50年経ったが、山形興譲館寮での生活は、折にふれ懐かしく思い出したり、ありがたかったと思っている。



寮の前で小母さんと記念写真?



一流料亭に篠田甚吉先生のご招待を受けた。3年以下は詰衿の学生服です。