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米沢有為会会誌・創立120周年記念号(平成21年)より
興譲館寄宿舎開設100周年記念 舎生OB寄稿文集

謝辞 興譲館寄宿舎開設100周年に当って

興譲館寄宿舎OB会会長
   大 関 修 敬(仙台興譲館 1956年(昭和31年)入舎)



社団法人米沢有為会の創立120周年と米沢有為100周年の記念式典に当り、寄宿舎OB会を代表致しまして、一言御礼の言葉を述べさせていただきます。
 米沢有為会におかれまして、東京に学生用の寄宿舎「東京興譲館」を開設していただきましたのが明治42年、その年から数えまして今年で丁度100年でありますが、その後大正3年には「仙台興譲館」、昭和5年には「札幌興譲館」、昭和30年には「山形興譲館」と、4つの学生寄宿舎を開設していただきました。現在札幌と山形は閉鎖されておりますが、この4興譲館でお世話になった学生は今日まで累計で1,400名を超えております。これだけの者が米沢有為会のお世話になり、世に出て、各方面で活躍しているのであります。米沢有為会のこのご恩に対しまして、あらためて心から御礼を申し上げる次第であります。
 抑も、米沢有為会が創立されましたのが、東京興譲館開設から遡ること20年前の明治22年でありますが、更にその淵源をたどりますと、明治17年、沖縄県令を終えられまして当時元老院の議官になっておられました当時の上杉家のご当主茂憲様が資金を拠出されまして、毎年2名程度米沢地方の若者を東京の大学に修学させようとなさったことから始まったようでありまして、茂憲様が封建時代の「米沢藩」という意識から脱却して広く「日本国」のために奉仕出来る人材を育成しようとなさった、ということは当時としては大変な開明思想であった、と松野良寅先生が「米沢有為会百年のあゆみ」の中で記しておられますが、私はむしろこの茂憲公のお考えが、明治維新後の廃藩置県、各地藩校の廃止にも拘らず、米沢地方では人材育成、教育重視の伝統が生き続けたポイントであり、この茂憲公のお考えが明治22年の有為会の発足につながり、明治42年の東京興譲館開設、同44年の有為会独自の奨学金制度のスタートと連り、育英団体として120年、永々として米沢有為会は発展してきたと思うのであります。
 この120年の間には数多くの困難もあったのでありますが、特に私か申し上げたいのは、先の大戦の際、東京・仙台の両興譲館が戦災により全焼したのでありますが、あの物資も資金もない時代に早くも昭和23年に仙台、昭和24年には東京の興譲館寄宿舎が再建された事であります。当時の諸先輩の方々のご尽力・ご苦労は並大抵のものではなかったと思うのでありますが、こうして幾多の困難を乗り越えて人材を輩出してきた米沢有為会の育英事業も、21世紀の新しい時代、地方重視の時代に入って、あらためて立ち止まってその向かうべき方向を見直してみるべき時期がきたのではないか、と思うのであります。
 1つ考えられますことは、米沢を出て広く日本のために働く人材を育成するというこれまでの方向から、むしろ日本全国から米沢のために働く人材を育成するという方向を模索すべきではないか、ということであります。 幸いにして、米沢地方の町づくりは、山形大学の城戸教授や柴田教授を中心に、産学共同の形で着々と展開されつつあると伺っておりますが、その動きに米沢有為会が人材育成の面で参画していく、ということは有意義なことではないか、と思うのであります。
 このような発想は今に始まったことではなく、既に今から20年前、有為会会誌の創立100周年記念特集号で現在米沢市長をしておられます安部三十郎さんが、当時の安部善明というお名前で「全国から人材を集める」と題して寄稿しておられます。更に10年前の創立110周年記念特集号では、「有為会の本題は“人づくり”」いう懇談会記事の中で、現在の下條会長が、当時は監事でいらっしゃいましたが、山形大学工学部に米沢地方以外から進学してくる学生に対する奨学金制度を提案しておられます。奨学金を出すだけでなく、米沢地方の企業への就職斡旋等も必要かと思いますが、現執行部におかれましては是非共その実現にむかってご尽力をいただければと思う次第であります。
 更に、山形大学工学部のみならず、米沢の「オフィス・アルカディア」という構想を「オフィス&スクール・アルカディア」という構想に拡大し、茨城県の筑波に勝るとも劣らない研究学園都市にするという考えはいかがでしょうか。
 明治の初め、イギリス人女性のイザペラーバードという人が日本旅行記の中で、置賜盆地のことを「日本のアルカディア」と言ったそうでありますが、それは多分、のんびりした米作地帯のことを言ったのだと思いますが、現代の置賜を「オフィス&スクール・アルカディア」にするという構想はいかがでしょうか。
 興譲館寄宿舎開設100周年という節目のときに当り、これまでの米沢有為会のご恩に対し重ねて御礼申し上げますと同時に、失礼をも省みず愚見を申し述べさせていただきました。有難うございました。


角五郎丁追想

 今野 多助(旧姓:渋谷)(仙台興譲館 1956年(昭和31年)入舎)
 
 
 
 今年(平成21年)が医学部卒業50周年だったので、学生時代に仙台興譲館に居住したのは半世紀以上前のことになる。記憶は薄れているが、当時の寮のこと、一緒に生活した人々のこと、近所に住む人々、通学路のこと、あるいは近くを流れる広瀬川のことなどが、断片的だが懐かしく思い出される。しかし、手元には当時の写真や記録は少ないので、思い出はすべてセピア色の記憶に頼ることになる。
 昭和31年4月の入寮だったが、その頃の寮は現「角五郎一丁目」にあり、医学部まで歩いて1Km余りの通学路だった。澱橋を過ぎて当時の進駐車司令官官舎(現知事公舎)までの急な坂道があり、朝の上りはきつかったが、帰りの下りは、眼前の広瀬川、その向こうの蒲鉾型の兵舎が並ぶ駐屯地や青葉山を眺めながらで愉快だった。澱橋近くの堤防沿いに野球揚があり、そこで皆と一緒に遊んだことなどもあった。また、川端で聞いた河鹿蛙の鳴き声は忘れ難い。ウィーウィーと聞きなされ、涼しげで綺麗な声で、風情があった。それまで聞きなれない鳴き声だったので、人に尋ねてカジ力の鳴き声と知った時、魚の鰍しか思い浮かばず、それが鳴くのかと訝ったこともあった。
 広瀬川は、「青葉城恋唄」ですっかり有名になったが、そこで歌われるように、30年代の始めの頃は河鹿の住むような清流であり、暑い夏の日にはそこで泳ぐ人もあり、われわれも加わって泳いだことを覚えている。その後、川の汚れがひどくなって遊泳は禁じられたが、いつ頃からだったろうか。最近の報道によると、河川の汚れは改善され、鮭の遡上や産卵が見られるようになったという。また、宮沢橋付近の「貸しボート」の営業が解禁されて、かつての賑わいが戻っていると聞き、そこで遊んだ昔日を思い出す。
 近所の食堂「喜久屋」の思い出は尽きない。営業されていた沼倉夫妻は、多くの寮生に年長の兄姉のように慕われた。お店の居間にあったテレビの前に陣取って、迷惑もいとわず、栃若全盛時代の大相撲を観戦しながら、栃錦だ、若乃花だとわいわい騒いだものだった。あんな振る舞いを思い出すたびに、それを快く許してくれた夫妻の温情への感謝の思いに堪えず、また忸怩たる思いも消えない。最近の沼倉氏の訃報は悲しい。



1956年度有為会仙台支部総会兼上杉神社遥拝式;1956.4.29
   寄宿舎の裏庭に仮設された拝殿前の記念撮影


文学に酔い借家に泣いた寮の思い出

伊藤 和夫(仙台興譲館 1965年(昭和40年)入舎)



大学に入学して猛烈に本を読み出し、その影響でやや文学かぶれになった私には寮での文集発行がとても嬉しいことであった。寮に咲いた文学の花(?)、文集「みすかんとす」の発行である。洒落た名前は外国語で枯れススキのことらしい。私の在寮中に第3号から第7号まで発行され、その5冊が何回かの引越しにも捨てずに大事にとってあった(写真)。おかげで40年前の自分と寮の仲間に再会することとなった。私の文章は青臭くて恥ずかしいが取柄は純粋さだけ、仲間の文章は詩・随想・論文・小説など多彩でなかなか格調が高く面白い。しかし、情けないことに編集後記には度々「原稿が集まらない」との反省が書かれてある。理想と現実のギャップの中で編集者の苦労があった。私の退寮後、文集発行がいつまで続けられただろうか。
 
 
 
寮発行文集「みすかんとす」

3年生になり不肖私か寮長に選ばれた。その頃、東京興譲館寮が新築移転されて我が仙台興譲館寮にも大分古くなった旧館の建て替えの話が持ち上がった。とんとんと話が運び建設となったが、大変困ったことは完成まで寮生の半数が一時寮を出なければならなくなったことである。経済的に大変な寮生の中で、人選をどうするか、寮を出た人が安い経費で生活するにはどうするか、降って湧いた大問題に寮は蜂の巣をつついたようになった。寮生総会を何度も開いて対応策を練った。そして辿り着いた結論が大きな一軒家を借りて移転組が全員そこに入るということであった。寮生の結束を崩したくないという思いである。不動産屋を介して仙台市長町に一軒家を借りた。ところが最高の策と思っていたのは寮長だけで、移転組は共同で自炊しなければならなくなり生活が大変になった。そのうちそこを出たいという者が出てきて数ヵ月後に賃貸契約を解消することとなった。その後は各自が下宿などを探して別々に暮らすことになったのである。新館が完成しても寮に戻らない者もいた。寮生活の最後にほろ苦い思い出が残った。青春真っ只中、喜びと苦労がまぶしくも懐かしい。