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米沢有為会会誌・創立120周年記念号(平成21年)より
興譲館寄宿舎開設100周年記念 舎生OB寄稿文集

米沢有為会に想う

 小 森 力 雄(東京興譲館 1945年(昭和20年)入舎)



 (社)米沢有為会は、明治22年に、親睦を基に、置賜地方人の育英事業を、主たる目的として発足し、その育英事業である興譲館寄宿舎の維持経営と、奨学金の貸与は、有為会事業の大きな2本柱であります。この2本柱の1本である興譲館寄宿舎は、明治42年以降、東京・仙台・札幌・山形に順次設置され、その舎生OBは総数1,969名を数え、現在、設置されているのは、東京・仙台の2箇所です。
 私は、昭和20年4月の空襲で焼失した、東京興譲館寄宿舎(新宿区西大久保)が、仮寄宿舎として借用した当会相談役遠藤達氏宅(世田谷区上馬)、次に、当会評議員永井省三氏宅(世田谷区上馬)に、昭和20年から22年の解散迄お世話に成りました。大切なご自宅を、仮寄宿舎として提供して戴き乍ら、終戦直後の食糧難、住宅難で、多くの国民が生きるのに精一杯の混乱した厳しい時であり、寄宿舎と言うより合宿所の様な状況でした。同室の藤田浩一朗先輩からは、生きる為の逞しさを伝受致しました。
 昭和22年に解散し、中断しておった寄宿舎が、24年に西大久保の焼跡に再建され、幸いに再度入舎させて戴き、26年の卒業迄お世話に成りました。この再建に付いては、まだ戦後の混乱が続いており、建築資材等も乏しく、他の色んな面でも、大変ご苦労の多かった事と思います。
 隣の2号室の主は「有為会の生き字引」である金子芳雄相談役です。


東京興譲館寄宿舎昭和24(1949)年10月2日再建 第1回入舎生

 この様な戦後の時間のみならず、明治42年から現在迄の間、4箇所の寄宿舎に対する、上杉家を初め、同郷の皆様、会員の方々の、ご厚情とご尽力は絶大なものであり、そのお陰で私共舎生は、食と住の心配をする事が無く、目的の修学を果す事が出来、それぞれ立派な社会人として活躍出来る事は、誠に有り難く心から感謝申し上げる次第で有ります。

 この感謝の心を具現するには、私共舎生OBは、挙って有為会の会員となり、会の活動に参加し、舎生時代に有為会から享受したものを、次は、郷党後輩へと継承し、有為会の活性化と永遠の発展に寄与する事であり、使命でもあると考えます。この様な感謝の念を持つのは、人間として自然の心であり、物事の道理であると思います。



 昭和25(1950)年11月3日戦後第1回園遊会 於新宿御苑

 明治42年に寄宿舎開設以来、100年の歴史で、舎生OBは1,969名ですが、物故者、住所不詳者も多く、現在、連絡可能なOBは約800名で、その内、有為会に入会している舎生OBは、約300名が実情です。舎生OBでは無い熱心な会員の方から厳しい声も戴いて居ります。
 その未入会の理由は、色々あるとは思いますが、やはり、物事に対する感謝の気持の欠如ではないでしょうか。之は、独り有為会のみならず、昨今の悲しい世相でもあり、謝恩とか恩返しと言う言葉を、死語にしてはならないと痛感致します。之を、天性などと思わずに、最も大切な幼児教育、その後の成長段階に応じての知育、徳育、体育、その中でも徳育が最も肝要かと考えます。
 本会の場合、新入舎生は大学1年生で青年期ですが、資質も有り理解力も有る訳ですから、有為会の歴史、意義等に関する事柄を、正しく認識する様に、本会の人づくりの一環として指導育成をすれば、必ずや、本会の期待に応える舎生OB、そして有為会員が誕生するものと確信を致します。
 誠に借越ですが、問題提起をするだけでは無く、その実践について、拙い私見も有り、微力を尽す所存です。


東京興譲館時代の思い出

 大 石 道 夫(東京興譲館 1954年(昭和29年)入舎)
 
 
 
 私が東京興譲館にお世話になったのは、昭和29年から33年までの4年間である。私は他の興譲館生と違って、実は札幌市生まれである。父が米沢市出身で、北海道大学の教授のかたわら、札幌興譲館の館長をしていたのであるが、病没したために一家で東京へ引き上げることになった。私か丁度、東京の大学に入学したために、母が当時の桜井館長にお願いして特別に入寮を許可されたものである。父から米沢のことはたびたび聞かされていたし、札幌興譲館の学生さんが良く家に遊びに来ており、又、興譲館高校に私の従兄弟が在籍、卒業していたこともあり、入寮してからもさほど違和感もなく、他の寮生の方と一緒に楽しい青春時代を送ったものである。
 当時の東京興譲館は山手線の新大久保駅から歩いて10分ほどの明治通り近くにあり、400坪(?)ほどの広い土地の中にぽつりと2棟の寮舎が建っており、2人1室が原則であった。当時は戦争の焼け跡はほとんどなかったが、まだ戦後復興の最中であり、物資がようやく潤沢に出回り始めた頃であったが、寮生の多くは家からの仕送りと同時に様々なアルバイトをして学費、生活費を稼いでいたものである。私白身も週に何回かの家庭教師をしていたものであった。興譲館での生活は、率直に言って非常に楽しいものであった。また、佐藤さん、山口さんという寮母さんともいえる方々に朝夕、食事を作っていただいて、当時としては結構、食生活に関しては恵まれていたと思う。又、寮の行事として近くを走るマラソン大会や相撲大会など、結構、スポーツにも精を出したし、同世代でその後、代議士になった近藤鉄雄さんやプロ野球選手になった皆川睦男さんなどが訪ねて来られたのも記憶している。又、年に1回、東京在住の米沢有為会の方々が集まる園遊会を浜離宮で行っていたが、我々学生はそれの準備のため、みんなで会場の設営など手伝ったことも、今となっては懐かしい思い出である。在寮していた時には、多くの上級生、同級生、下級生と一緒になったが、今でも折に触れて交友が続いている。当時の寮監は、後に東京都副知事になった高橋俊竜さん(愛称ドンちゃん)であった。10年ほど前、高橋さんから私に現在の東京興譲館の館長になってくれないかという内々の依頼があったが、丁度、千葉県の木更津市の郊外にある現在の職場のかずさDNA研究所に就任が決まった直後でもありお断りしたが、折角の若い方々と接触出来る機会を失ったことを今でも心残りに思っている。私の在寮中に知り合った多くの方々について、ここで1人1人の名前をあげることは出来ないが、同期の会として数年前、小野川温泉近くで何十年ぶりかで集まり、皆さんの元気な顔を見、又、昔の思い出話に花が咲き、楽しい1日を過ごすことが出来た。18才から22才という大学の4年間、そして多感な青春時代を送った東京興譲館の思い出は尽きないが、いつも鮮明に思い出すことが出来る。興譲館の食堂に1台テレビを置くべきかどうか議論したり、又、食堂のラジオから流れる音楽に皆で耳を傾けたなど今から思うと隔世の感があるが、本当に懐かしい。時代も変わって勿論、今日の東京興譲館での生活は、我々の当時の寮生活とは性格が変わって来たとは思う。
 終わりに、米沢を出て地方の大学に在学する学生達のために、戦前からこのような施設を東京、仙台、札幌に作り、勉学を助けて来た米沢の先人の方々の叡智とその実現に向けてのご苦労に心から敬服、尊敬する次第である。
(東京大学名誉教授)