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米沢有為会会誌・創立120周年記念号(平成21年)より
興譲館寄宿舎開設100周年記念 舎生OB寄稿文集

仙台興譲館の想い出

小幡 常夫(仙台興譲館 1936年(昭和11年)入舎)



昭和11年4月、東北帝大法文学部・法律学科に入学した私は、直ちに仙台興譲館に入寮を認められ、そのままお世話になることに成りました。当時の仙台興譲館は入寮学生が少ないため運営が困難となり、米沢地方出身者の外に、山中、上山中、寒河江中等の出身者が数名入寮を認められ、一緒に寮生活をしたことが印象的でありました。これ等の諸君は、米沢有為会の設立目的や具体的運営を良く理解し、何ら支障なく寮生活を楽しんでおりました。この事は地域交流を深める良い機会であったと思います。仙台興譲館の所在地は、繁華街のある市街地とは、かなりの距離があったため、余り市街地に出掛ける機会もなく、休日には庭内のテニスコートで仲間同志が軟式テニスを楽しんだり、近くの広瀬川河畔で散歩をしたり、又夜はレコードに依る名曲鑑賞に浸ったりしたことを想い起します。結構楽しい生活が出来ました。
当時は館長の社宅が庭内にあったため、館長さんと直接お話する機会が多く、有意義なことと思っておりました。
又、新年会等の会場には、第二師団の高級将官や、開業医の医学部大先輩等の有為会仙台支部幹部役員の方々が同席され、直接盃を頂いたり、有難い激励の言葉を頂たり、大先輩のご好意には唯々感謝の想いを深めるばかりであります。
これ等の事は、後に東京興譲館長を拝命し、長年務めた際、寮運営の方針の中に、大きな影響を与えたことは否定できません。
さて仙台興譲館再建の計画は、小松支部長のご尽力に依るものでありましたが、旧館所有地の売買計画の一部に、不可解な点が見出されたので、有為会長として計画の一部見直しを指示し、再検討を命ずることと致しました。小松氏の努力を通して第2次案が提出され、いよいよ実施をみることとなりました。又新案の設計は、近代建築の権威者である御供政敏氏にお任せする事になり、見事な新館が出来上がることになりました。氏は現往仙台興譲館の館長を務めておられます。
寮運営は順調に進み今日に至っております。今後の見事な発展を期待して止みません。
これをもって仙台興譲館の想い出を終わりたく存じます。


仙台興譲館時代の思い出

西村 純(仙台興譲館 1945年(昭和20年)年入舎)
 
 
 
今年もまた暑い夏が過ぎて行った。その日は太陽のじりじりと照りつけるなかを、広瀬川沿いに歩む道から、空襲で廃墟となった町並みの彼方に仙台駅が見えていた。正午に終戦の放送があった日の事である。
 旧制二高を卒業して、北五番町にある明善寮から角五郎丁の興譲館へ移ったのはその数ヶ月前の3月末であった。大八車を借りて、荷物を山のように積んで、市電通りを回り、最後に支倉通りから坂を降りようとすると、車を押さえる事が出来ず、取手を地面にすりつけながら、やっとの思いで、興譲館にたどり着いたことを思い出す。
興譲館はL字型の建物であった。入り□の門の右側に館長の九里先生〔第二高等学校の教授〕のお宅があり、続いて、2階建ての本館が建っていた。食堂があり、ついで談話室には米沢藩時代の火縄銃と、多分先輩が寄付された書籍、その中には寺田寅彦の全集もあった。引き続いて部屋が並び、約10名の寮生が、静かなときをすごしていた。
 仙☆か空襲を受けたのは7月10日のことである。それまでは、比較的穏やかな日々をすごして、友人と夜遅くまで碁をうったり、寺田寅彦全集を読みふけったり。あとで考えれば、仙台空襲までのごく僅かな平和なひと時であった。東京で3月10日の空襲を体験した友人が現れて、そのすごさを話してくれて、やがて庭には防空壕が掘られた。
 日本各地でのB29の爆撃が増えるにつれて、興譲館でも、対空監視係を置くことになった。談話室にあるラジオを聞いて、警戒警報や、空襲警報が出たときに即時全員に知らせる役割である。
 7月10日は私か担当の日であった。まず1機(2~3機であったか記憶が確かでない)のB29が仙台上空に近づくと、警戒警報、次いで、空襲警報。この1機は仙台上空を通過して石巻方面に飛び去り、引き続き100機を越えるB29が鹿島灘を北上中という情報がはいる。不思議なことに、この段階で警戒警報と空襲警報が解除された。
 次に起きたことは、突然の爆音と照明弾投下。東一番町のあたりが昼のように明るくなった。空襲警報が発令され、鹿島灘を北上中の百数十機が到着して、仙台の中心部から焼夷弾を投下し始めたのである。
 角五郎丁は町の中心部からはずれているので、ただ望見していたが、爆撃は渦巻き状に、中心部から少しずつこちらに向かってくる様であった。庭で眺めていた我々も全員防空壕に飛び込んだとき、鉄橋を列車が走るような轟音が、次いで、焼夷弾がおちて、地面が揺さぶられ、庭に植えたジャガイモの葉に火がついて燃えだしていた。何より大変なことは本館に落ちた焼夷弾で窓は飛び散り、建物が燃え出している事であった。全員総出で、バケツで水をかけるが、燃えさかる一方である。煙に巻かれて危険を感じ、目の前の広瀬川の河原に逃げることとなった。
 角五郎丁は第二師団の裏手に当たる。師団の兵士が河原を逃げ惑っているのをやりきれない気持ちでみていた。後年になって知るのだが、南方戦線で全滅に瀕した第二師団には、もはや往年の姿はなかったのかもしれない。第二師団を爆撃したB29が飛来して探照灯に映し出された爆弾槽から焼夷弾がパラパラと頭上に降ってくるのは、生死を分ける事柄であった。
記録によれば、この日仙台を襲ったB29は123機で、約1万発の焼夷弾を投下し、住宅地の約20%が焦土と化し、約千名の死者が出たとされている。いかに爆撃が激しいものであったかを示す数字であった。
 夜があけて、大学にむかう広瀬川の川縁には死者が数多く横たわっていたが、道を行く人は無関心であった。たった一夜の激しい環境の変化に人々の感性が失われていた。大学では、赤煉瓦の物理教室の建物が燃え、防火にあたった林先生が興奮の面持ちで、建物が焼け崩れていった姿を話してくれた。
 興譲館は近くにあった空き家で、かつての東北大学の先生の大きな屋敷にしばらく仮住まいをしたが、終戦後は、操業を取りやめた長町の東北ゴムの社員寮に引き移ることになった。1年後には、これも解散し、興譲館が再建されたのは2、3年後のことである。
 数年前、機会があって角五郎丁を訪れた。跡地付近は家が建て込んでかつての面影はなく、再建された興譲館を見いだす事は出来なかった。ともに過ごし、いまは故人となられた多くの友人の事、半世紀をこす時の流れの中に、未来を見つめながらも苦しい時代を過ごした青春の思い出が、ふと、わきあがってきた。広瀬川のながれは昔のままに、夕暮れの河原のさまが心に深く焼き付いていた。