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米沢有為会会誌復刊5号(昭和31年7月)
興譲館だより(昭和31年、1956年)

東京興譲館

 戦後、いちはやく、会長初め、多くの諸先輩の方々によって、興譲館再建の努力が始められ現在の旧館が竣工をみたのは、24年10月であった。その後、この努力はたゆまなくつづけられ、23年10月には、新たに二階建一棟が増築され、収容人員も、14名から一躍27名に増加し、更に、咋夏、旧館と新館とを結ぶ廊下が総経費11万円で完成し、同時に洗面所と下駄棚が新設されて、ここにようやく、興譲館も完全な統一体となりえたのである。この間、実に6年有余、思えば長い苦難な道ではあった。今、この恵まれた境遇の中で、静かに過去6年有半を顧みるとき、充ち足りた歓びと共に深い感謝の念を禁じ得ません。なによりも諸先輩の並々ならぬ御尽力に、舎生一同、誌上をかりて厚く御礼申上ます。
 ところで、かく恵まれた境遇の中で、舎生は、一体なにを考え、いかに行動し、どのような生き方をしているだろうか。盛り場新宿の近くで、しかも閑静と云った、巧みな状景描写や、舎内生活の外面的な報告は、この3、4年つづいた「東京興譲館便り」によって、筆致に尽された観がありますので、今年は、少しく角度を変えてこの稿を進めて、諸先輩の御批判や御指導を仰ぎたいと思います。
 先づ郷土寮の一般的な性格について。これを、一つの社会集団と見立てて、それらの歴史的な発展段階の中で、どのような場所に位置づけられるだろうか。ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへ、あるいは、第一次集団から第二次集団へという古典的な発展法則の上から、これを考えてみたいと思う。前者が歴史的にみて原始的社会から近代以前に典型的にみられた点において、これを前近代的集団といい、後者を近代的集団と呼ぶ学者もあるが、いずれにしても、ゲマインシャフトは、地縁血縁を基礎とし、個々の成員を結びつける絆は、愛情をその典型とする情緒的なものである。そこで、このような段階的な発展系列の中で郷土寮を考えると、まづ、初めに、第一次的なゲマインシャフト的性格といったものが浮び上ってくる。たとえば、米沢というような限定された土地を根幹として、その上に成立する人的結合が中心をなし、その中では、濃厚な人間関係が支配的である。しかもそこでは成員相互が互いに、家庭の事情から彼の生活史まで知りつくしている場合が多い。だからたとえば、非常に重大な問題が起ったときなど、言語に盛り込むことのできぬ、非合理的な要素までも一挙に理解され、以心伝心といったコミュニケーション形式が非常なウェイトをもってくる。そして問題解決のための話し合いは、第二次的な意味しかもたなくなることさえありうる。更に、古い伝統だとか、慣習といったものが比較的重視され、問題の多くが非合理的に情緒的に処理される傾きがある。
 たまたま、郷土寮は家族的であるとされ、興譲館においても、ある時は、その家族性が強調されてさえ来た。しかし、家族的とは、それほど重大なものであろうか。たしかに、そこは、家族的な愛情に包まれた温情的世界であり、この家族的雰囲気は、こよなく美しいもののように思われる。だが、ここにこそ郷土寮の欠陥、ひいては、興譲館の問題があるといえないだろうか。われわの関係は、この茫漠とした都会の冷い、打算的な人間関係に比して、なんとエモーショナルな触れ合いだろう。一歩、外へ出れば、言葉が違い、あの雑踏と喧噪の中で、一寸したエトランゼの悲哀を感じないわけにはいかない。それに反して、舍内では、米沢弁が自由自在に幅を効かす。一種の安心感とか気安さと云ったものがある。進取を望まず、平穏をのみ願うならば、舍内に閉じ籠っていた方がどれほど安楽か知れぬ。だから、ややもすると、この住み心地良き興譲館に閉じ籠って、東北人共有の自閉性を、一層助長することにもなるのである。
 興譲館には、4年間の大学生活で、唯一人の学友も出来ずに卒業する者もある、という伝説がある。しかし郷土寮のもつ、封鎖性あるいは、自閉性といったものを考えるとき、この伝説は、あながち、誇張とばかりは云えまい。勿論、資本主義的な大量生産方式を採用している現在の大学制度そのものにも問題があるとしても。だから、先輩から受けつがれたこの伝説が、興譲館の自閉性を暗示しさらに、それを乗り越えた興譲館生活を示唆している点において、現在のわれわれにとっても、一つの教訓であるとさえいいうるであろう。
 興譲館のゲマインシャフト的性格、それは決して軽視さるべき問題ではない。勿論、新進気鋭の新入舎生によって、年々除去されてはいるが、それでもなお、張り切って入舎してくる新入舎生の覇気を、スポイルする不思議な魔力をもっている。だから、余程、この重圧を意識し、抵抗しながら生活しない限り、近代人の本質とも云うべき、積極性と合理性をまでも喪失してしまうであろう。
 ところで、ゲマインシャフト的性格のみが興譲館を性格づける全てではない。寮のアパート化という言葉によって、これまで多くの先輩だちから示されて来た問題がそれである。つまり個々人がアパートと同列に、生活の場としてのみ、この興譲館を考えるという、舎生の傾向的な態度についてである。
 これは、なにも興譲館に限られたことではないらしい。東大の駒場寮では、このアパー卜化を防止するために入寮式をやり、教育大の寮でも、同じようなことで問題となったようだ。その頃の新聞の投書にも、この問題をとり上げられていたのを記憶しているが、大部分の意見は、寮がネグラとなる原因はなにか、もう一度それを正しくっかみたい、として現実の厳しさの中で、アパート化しなければならない必然性に肯是的であった。いずれにしても、われわれの寮生活の中にも、この苦しい学生々活を少しでも緩和するために、という目的合理性が働いているという事実は、否定できないであろう。これは、人間の結びつきが目的合理的であるという点において、明らかにゲゼルシャフト的性格であると云わなければならない。
 こうしてみて来ると、興譲館は全く、二律背反的な性格を同時に併存させていると云えよう。問題は、それゆえに複雑である。しかし、それがいかに解決困難な問題であっても、いずれは、超克されなければならぬ問題であり、それは、われわれ舎生に課せられた、一つの課題でもあろう。
 この頃世間では、太陽族とか呼ばれるゾクがいるように考えられているが、ここ興譲館には、それらしき気配の人すら見出せない。われわれの生活はもっと厳しいのである。もっとも、太陽族などというものは、マス・コミュニケーションがつくり出した虚構に他ならない。それは、あれ程もてはやされたマンボ族という言葉が、いつの間にかひとびとから忘れ去られつつあるという事実からも自明のことであろう。われわれの世代は、派手なマス・コミュニケーションの眼の届かぬところで、案外、健康に成長しているのである。それがたとえ、陽の当らぬ場所であっても。われわれは、それを信じたい。

 現在、館長に桜井凱夫先生、副館長には高橋俊竜先輩を仰ぎ、なにかにつけて、舎生の良き相談相手となって戴いております。なお、舎生は次の27名です。
    高 橋   広(中大 専攻科) 米沢市 委員長
    斎 藤   実(教育大理四年) 赤湯町
    近 野   栄(明大 商明年) 米沢市
    小 森 邦 夫(明大政経四年) 米沢市
    唐 沢 厚 雄(法大 社四年) 米沢市
    坂 野 芳 三(理科大数四年) 米沢市
    長谷部 英 吾(教育大文四年) 長井市
    田 中   武(法大 法四年) 米沢市
    須 貝 哲 也(東大 工四年) 山形市
    大 武 良 治(東経大経三年) 川西町
    大 石 道 夫(東大 理三年) 東京都
    高 橋   通(明大政経三年) 米沢市
    坂 田 政 志(中大 商三年) 米沢市
    佐 藤 瑳 登(立正大経三年) 米沢市 会計
    小 口   進(東大 工三年) 長井市
    石 井 敏 浩(教育大教三年) 白鷹町
    渋 谷 芙 一(東電大工二年) 米沢市
    干 葉   忠(中大 法二年) 米沢市 食事
    菅 原 文 雄(明大 文二年) 白鷹町 庶務
    田 村   享(日大 工二年) 米沢市
    橋 本 勝 典(早大理工二年) 米沢市
    飯 沼 俊 雄(理科大物理一年)米沢市
    大河原   忠(立大 経一年) 米沢市
    藤 田 智次郎(早大政経一年) 米沢市
    高 野 宏 晃(学習院政経一年)米沢市
    藤 倉 駒 夫(東経大経一年) 米沢市
    小 関   薫(中大 文一年) 米沢市
次いで、年中行事としては下記のものがあります。
 1月15日  成人式、新年会
 2月中旬   卒業生送別会
 4月29日  上杉神社遙拝式
 5月上旬   新入生歓迎会
 5月中旬   ハイキング
 6月上旬   大掃除、相撲大会
 10月2日  寮祭
 12月上旬  忘年会 (高橋広 記)

山形興譲館

 山形の季節は、ようやっと、緑の葉が出そろったところです。郷里置賜の平野から赤湯のぶどう畑をひとつこして山形の地で勉学にはげむ私達に、なんとかして、興譲館を設立し諸君の便を計ってやりたいと心労して下さった支部の先輩の方々、引いては有為会の諸先輩の方々の尽力により昨年7月、ここ山形市薬師町420、かつて長谷川医院として開業されていたところを借り受けて下され、多大の補修費を投じて改築し、9月開館していただいたわけであります。ここは山形市内の北部大通りに面した堂々たる二階建、筋向いは、姉妹高等洋裁学院等があり、自動車その他の騒音で時にはせっかくの思索もこわされてしまうことがある。5、6分歩いたところには、山形県護国神社、雪見ケ畸と、散策にふける場所として絶好の場と言えよう。館内の紹介に及ぶと、階下に10室。階上に6室、おばさん達の部屋、炊事室、食堂と、部屋は平均8畳には3人、6畳は2人定員として、冬期の最盛期は舍生37名を数えました。開館後、11月27日、第1回の顔合せ会を支部長篠田甚吉氏経営の篠田病院講堂に於いて開催いたしました。諸先輩に御礼のことばをのべると共に、東京、仙台、札幌の興讓館の同僚達の健在を祈り、なけなしの財布をはたいてささやかな会食をいたしました。冬将軍の到来と共に火鉢もなくどうすることやらと悩んでいたところ、青木虎次郎先生の東西奔走の功なり、各室に1台ずつ火鉢が配布されました。炭は個人で自由に入れること。次第に舍生活にもなれて来た頃、彩画堂(山形市の一流額椽、画の専問店)より15枚の絵と額の寄贈をうけ、古典から現代の絵画までの絵は美しく各部屋を彩っています。
 一日中ぎっしりくまれている講義から漸く解放されて館に帰るのは8時半すぎ、部屋にも帰らずその足ですぐおばさんの心遣いのおいしい食卓のある食堂に入ってゆくもの、アルバイト時間ぎりぎりと駈足で部屋から飛び出してくるもの、中には、ステテコ1枚に鉢巻姿でのっそり出てくるものと、とにかく食堂が満員になるのは、4時半から5時半頃までの間である。全員入れきれないので、その間に一番やろうと将棋をさすもの、銭湯にゆくもの、(風呂場がまだ出来ていないのです。)がある。何とはなく朝は8時頃、夕方はこの時刻わめき声。笑声、時たま、蕃声まで聞えてくるのがこの時刻、やがて食後、思い思いの勉強に、家庭教師のアルバイトに、食堂を出てゆく。最近は興譲館ただ一つの娯楽設備?副支部長、川井豊氏からソフトボールー式の寄贈をうけそのグローブ片手に路地に出てゆくものもある。階上、階下の対抗試合やがては、館外へもと気が向くまま遊んでいる。
 30年度卒業生、8名を出し、夏季だけ通学するという学友をのぞき現在は26名の舎生をもっています。30年度の8名の卒業生はめでたく全員就職いたしました。
 第一回の卒業生は幸先よい前例をつくってくれたとよろこんでいる次第です。そして4月新入舎生を迎え、過日5月の中旬、篠田病院講堂に於いて歓迎会をいたし、はちぎれる青春の宴をいかんなく発揮した次第。
 なにせ、まだやっと呱々の声をあげたばかりの山形興譲館、設備も不十分ですが、私達にとってはかけがえのない憇の場所であり、自己研修の場でもあります。ただ思うに、その憇が、そして研修が、自閉の場にならないことが唯一つのねかいなのです。団結というこことも、考えようによっては、セクショナリズムなものに、その融和が、マンネリズムな行動の惰性に流れないよう。進取の気性を、そして冒険も敢えて肯定し、その抵抗にもがいて新しい意気の発見に常に前進したいものである。
 館の裏手には今バラやボタンが満開です。やがて、おばさんが春以来たんねんに世話してくれた花々も、目をこすりこすり洗面所に入ってゆく私達を楽しませてくれるだろう。こんな平和な、安住の地は、ないのです。これはただただ有為会諸先輩の心尽しと思い深く舎生一同感謝いたしております。
 ただ、我儘ということになるだろうか? こんなことになったらより楽しいと思うのに、ということをのべます。風呂場がほしい。娯楽室が欲しい(これは予算の都合で部屋をおけるわけにはゆかないのだそうです。)こんなことを考えています。とりとめなく興譲館の生活をかきましたが、最後に、このめぐまれた館内で生活出来ることをよろこぶと共に、それに感謝と、厚き友情との交流を願いつつ擱筆します。
 全国の有為会諸賢の御健勝をお祈りいたします。舎内も静かになりました。バイトの帰りだろう玄関から静かに自室にゆく学友の足音が聞えるだけです。
                              (6月4日・加藤記)
 在寮生名簿
   教育学部
   四 年   加 藤 永 雄  長井市
    〃    菊 地 寛 二  川西町
    〃    山 木   茂  高畠町
    〃    市 川 良 典  高畠町
   三 年   高 橋 正 夫  米沢市
    〃    坂 野 啓 吉  長井市
    〃    遠 藤 賢太郎  米沢市
   二 年   原 田 克 彦  宮内町
    〃    船 山 春 男  飯豊村
    〃    伊 藤 俊 幸  米沢市
    〃    斎 籐 勇 雄  川西町
    〃    阿 部 嘉 徳  長井市
    〃    後 藤 喜 一  米沢市
    〃    荒 井 健 三  高畠町
   一 年   二 瓶   功  高畠町
    〃    沖 野 和 人  川西町
    〃    大 竹 周 次  宮内町
    〃    雨 田 秀 人  米沢市
 文理学部
   四 年   海老名 規矩夫  白鷹町
   三 年   山 下   倫  米沢市
    〃    山 口 昭 郎  高畠町
   二 年   西 村   啓  米沢市
    〃    斎 藤 正 浩  長井市
   一 年   松 浦 猛 将  川西町
 工学部
   一 年   船 山 光 一  白鷹町
    〃    吉 田 信 夫  米沢市
    〃    金 田 義 文  長井市


仙台興譲館

 木々の緑が眼に浸み込んで来るように、杜の都仙台は今あらゆるものが背のびしようとしている季節だ。みちのくの空は今日も果てしなく青く、整備された広瀬川の堤防をぶらつくと切りだった対岸の崖にせせらぎがはね返り我々の耳に心よい響きを与えてくれる。自然と人工の美しさが調和したとでも形容すべきこの流れのほど近く、市の中心より離れること25分仙台の一隅にあるここ仙台興譲館の一日も今暮れようとしている瓦葺の屋根に周囲の垣が茂り時折自動車のエンジンの響が遠ざかると再び深閑とする絶好の場所である。
      
 今春、山形市の至誠堂病院に本田建夫(医)秋田県横手の平賀病院に上野恒太郎(医)の二兄をインターン研修生として更に千代田化工に就職の村上秀利(工)埼玉の新東洋時計会社に景山条一郎(工)の諸兄を送りだしたあとに四人の新入舍生を迎え、2ヶ月を間にはさんで6月2名の舍生の移動があり、現在次の16名が日々の生活を共にしている。
 四年  渡 辺   融  東北大工  米西高卒 総務
 〃   板 垣 義 次   〃 法   〃   庶務
 三年  高 橋 弘 助   〃 経   〃   文化
 〃   本 間 達 三   〃 法  宮内高卒 会計
 〃   大 熊 徳 次   〃 文  米西高卒
 〃   平   丈 夫   〃 文   〃
 〃   佐 藤 慶 吉   〃 工   〃
 二年  渋 谷 多 助  東北大医  長井高卒 厚生
 〃   佐 伯 和 重   〃 教   〃
 〃   香 坂 昌 紀   〃 文  米西高卒
 〃   塩 谷   純   〃 工   〃
 〃   大 浦 徳 昭   〃 文   〃
 一年  安 部 壮一郎  東北大経  米西高卒
 〃   大 関 修 敬   〃 法   〃
 〃   佐 藤 清 一   〃 工   〃
 〃   佐 藤   厳  東北大X線技師学校 米西高卒
 今年は東北大合格者教の増加と相俟って4名の欠員に20名が殺到し、舎生一同その銓衡に頭をいためたのもつい先日のこと、5月まで臨泊生も寄宿するという、瀕迫した状態が続き、子供のよき遊び場であり、舎生のキャッチボールの場に化している増築予定の空地をみる度、そこにハンマーの音がこだまする日が一日も早からんことを心待ちにしているのである。
      
 我々舎生の一日は小母さんの一声に始まる。学部により距離の遠近もあって起床時間もまちまち、自分の起床予定の時刻を札で示し小母さんに起してもらう仕組があって寝坊連中を喜ばせている。といっても時たま夜晩くまで話に夢中になり人生論を弁じたり、予習で辞書にかじりつき、小母さんの声も夢うつつに聞き、つい寝すごして顔も洗わず、朝食もとらず興譲館を飛びださなければならないこともある。朝のあわただしさと夕のなごやかさ、のどかさは1つのコントラストでもある。
 授業から開放され市電或いは徒歩でたどりつく寮は、疲れ切った舎生に何かしらほっとしたものを感じさせ、"我が家"へ帰ったというくつろぎを覚えさせる。1つのテーブルを囲み舎生一同小母さんの料理に舌つづみを打ってその日の出来事、最近の話題に話はつきるともなく発展する。
 夕食後の勉強までの時間は1日中の疲れをほぐし、明日の緊張と勉強へのエネルギーを貯える家庭的ななごやかな雰囲気に浸るのだ。
 囲碁、麻雀にうち興じ、クラシック、はてはジャズに聞きいり、名曲集の頁をめくりながら音痴コーラスを始める何人かもいる。
 時折″コニー劇場″や通称″東北劇場″へ映画に連れだっものもある。終電の響を遠くに聞き、夜の風を受けながら、映画の中にみいだした人生に論をとばし、夜の街に足音をのこしてテクッて帰るのも又学生中の思出話のひとつでもあろう。こういった舎生だけの話、或いは興譲館の中では、米沢弁が生き生きとして外では苦心惨憺の標準語で悩まされる舎生も流暢な米沢弁をまくしたてるのである。
 
 16人だけといっても学部の違いと同様個性も夫々違っている。食卓を舞台にしたピンポンのチャンピオン、風呂場でモーツァルトを奏でるバイオリニスト、麻雀のタイトル保持者、美声を張り上げるオンチスト等々。
 最近では野球チームも出来、昨年は対外試合までのりだし惜敗はしたものの、チームワークは完壁である。卓球といえば夕方″腹へらし″のつもりでやるのが、しばしば夕食では足りないという結果になってしまう。
 舍生の中には酒にかけては"竹林の七賢"と自称するものもいる。酒といえばコンパが連想されるが、昨年の型にはまったコンパが今年早々の新入生の歓迎コンパでマンネリズムから脱却したという感を呈したその後のコンパには或るテーマで議論がかわされ、それが期せずして歌の方向へとなごかな宴になったのには、単にマンネリズムの脱却だけでなく、その上に一つの気風を築き上げたことを痛感せずにはいられなかった。こうしたコンパの気風も、甚しいゼネレーションの差異が次第に解消して来た今年の興譲館に、親密な雰囲気を漂す否めない事実の一つでもあろう。
    
 学寮と違って米沢人だけの興譲館更には米沢人の比較的多い仙台中で、とかく問題となるのは、いわゆる米沢人だけの枠の中にとじこもって一般的な通念の温厚さといった傾向におちいるとう事だろう。しかし舍生一同夫々のクラス、その他の方面で夫れ夫れの地方の人々との接触に積極的であり、この殼を破ろうと努力している。
 いわゆる伝統の古い興譲館にも、年と共に新しい方向の気色が漂っていく、″タンツエン″をやったり、あるいは折目のたったズボン、アイロンのかかったのりつきのワイシャツ、″メッチェン″の来訪にもそれがみられる、その反面この古い伝統にプライドをも保持しているのである、
 現実の厳しさはこの興譲館にも流れこんでいる。舍生の中にも家庭教師、筆耕、夜警などのアルバイトを余儀なくされているものもある。しかし常にこの現実に抵抗しながらも苦難を打解しようとし、苦境の中に若人の喜びを見いだそうとすることを忘れない発溂さがみなぎっている。
      
 興譲館の主な行事は4月の新入生歓迎コンパに幕を開け、4月の遥拝式、5月の大掃除を中にして春のピクニックがこれに続く。この春は松島に程近い山と海が美しく接近した″大鷹森″だった。駅や車内の押しつ押されつのわずらわしさも、ピクニックの楽しさにかき消され、可憐な乙女も何人か加わり、総勢40人、一隻の遊覧船を借り切って松島湾を左右にし潮風の中に見た景色は、今も鮮やかに彩られて心のアルバムの一頁に刻みこまれている。
 昼食には小母さん手製の″すし"に腹をみたし、バレーに興じ、コーラスを楽しみ、目の前に広がる海原に名残を惜しんで帰途についたのだった。
 夏休みの夫々の生活に思い出を残して寮に帰ってくると、やがて役員改選と旧役員の慰労コンパが待っている、悲喜こもごもの試験も終って10月には春のピクニックと共に最も楽しい行事の一つ秋のハイキングがある。
 新年を迎えて正月のコンパ、そして3月の卒業生の送別コンパに幕を閉じる。
      
 新入生を迎えたのもいつの間にか3ヶ月の過去となって、やがて夏休みも真近に迫った。今から夏休みの計画が話題にのぼり、登山、海水浴に楽しい日を送ろうと胸をはずませる者、仙台に残ってアルバイト、勉強をしようという者、田舎に帰って清閑さを味うという者、今から夫々のプランが立てられ、夏休みのスムースな、意義ある生活を楽しみにしている。そして又日やけした顔で一同に会し、夏休みの体験が得意気に、そしてにぎやかに語られることだろう。
     
 こうして興譲館に生活する舎生一同、有為会の諸父兄の方々に敬意と感謝の念を抱いていることをここに代述し、諸父兄の御健勝を願って筆を置く次第です。
   1956年                           (大浦徳昭記)


札幌興譲館

 北国の長い冬が過ぎて、札幌名物の黒い雲が消え失せて、やっと、私達札幌に住む者にとって、最も楽しい季節が訪れました。
 半年以上、煙にまかれて清い室気を吸い得なかった者にとっては、夢のような感じです。
 5月中旬に桜が開きますが、山形出身の私達は、この花に対して、あまり、満足できないものがあります。というのは、札幌、否北海道の花は、葉の中に、花が開くために、大してぱっとしないからです。しかしやはり春だなあと思うに充分です。一気に暖かくなりますので、花もほとんど時を同じくして開きます。「恋」と深い関係があるとか謂われる、ライラック(リラ)の花それに街路樹のアカシヤ(正確にはニセアカシヤ)のおぼろげな白い花も晩春の雨にぬれて、いと趣きがあります。ここ札幌興譲館の猫のひたいのような庭にもドイツトウヒに囲まれて、ライラックと桜とアカシヤの木があり、疲れた私達の目を回復させるのに、一役を果しています。
 この様な環境の中で、私達興譲館舎生は、新入生4名を迎え、心身共に新たにして、各々の目的達成に努力を続けています。例年は、入寮希望者が少ないため、在寮生の友人を、入れたりしていましたが、今年は米沢西高校出身こそ一人しかいませんが、米沢と関係の深い人ばかりで、有為会の活動を行うのに、非常に力を入れやすいだろうと、喜ばれています。今年春の退寮者は3名ですが、半年から1ヶ月という短期間の在寮で、寮に充分馴れずに退寮されたことは、私達としても、残念なことでしたが、一人は北大を卒業したため、又、ほかの二人は、受験のため在寮していた方でしたから、夫々の希望の大学に入学したこととて我等、その前途を祝福して、送った次第です。新入生は、全部北大の一年生でありますので、長い寮生活をすることになるのだから、今後のファイトある活動が充分期待できると確信しています。
   退寮者
    大 石   力  立命館大学入学
    谷 口 光 洋  室蘭工大入学
    山 本 信 雄  北大法学部卒業 経済学部に学士入学
 その他に三浦隆君が、都合により、昨年9月退寮しましたが、今年、北大工学部を卒業し、日鉄鉱業KK、二瀬鉱業所に入社しました。                    
   新入生              
    米 村 尚 晃  北大一般教養部医進コース   米沢西高校出身(米沢市)
    上 野 紀四郎  北大一般教養部理類        (東京都)
    西 沢 俊 治    ″                    (名古屋市)
    三 原 信 義    ″                     山形県楯岡高校(山形県村山市)
 4月末に新入生歓迎会を行ったところ、新入生の強いこと。ノムコト。たまげました。
 古いものは、新しいものに譲れと言って、長老方は寝てしまったが、ファイトあふれる、新人の活動は、物すごく、数年来、見られなかった大がかりなストームで、それは正に昔の北大予科生の行動を再現した感がありました。しかしこのような腕力ばかりが若人の熱と力ではありません。うるわしい、情ある、札幌の娘殿を獲得するために日夜努力を続け、心の糧にしようとしている者もあります。そして、その中にややもすれば、暗くなる現代の若人の明るさを見出しているのでしょう、
 次に、在寮生を紹介致します。
    丸 山 義 皓  北大大学院(農学部)修士課程二年(山形県天竜町)
    山 下 和 夫   〃   (文学部) (山形市)
    今 野 儀兵衛   〃   (工学部) (米沢市)
    藤 田 浩 也  北大医学部三年    (山形市) 総代
    佐 藤 道 男  札幌医大三年     (旭川市)
    山 口   尚  北大農学部四年    (山形県上山市)
    井 上 昌 平   〃文学部三年    (山形市)
    折 原 美代治  北大一般教養部理二年  (山形県尾花沢町)会計
    丸 山 保 治   〃         (北海道芦別市)
    富 沢 利 雄  札幌短大二年     (北海道多度志村)
 他に、前に記した新入生と合せて14名で、会議室だべり室を解放して、そこには二人ずつ入れていますので、超満員です。こうでもしないと、寮費がとても高くなりますので、仕方ありません。現今は、ほんとに苦しい運営で、私達は、如何にして寮費を安くするかということに、頭を脳ましています。道産米1/3 麦1/3 外米1/3 の割合で主食をおさえていますし、おかずも、札幌は全国平均の一乃至二割物価が高いので、その調整に苦心しています。この苦しさも、結局は将来、世の中に出て働く様になる時の、良き想い出となるだろうと思うと明るさもあります。名物、馬糞風も、やっとおさまり、初夏の日ざしをあびて、元気に、一致団結する我等興譲館生の楽しい姿を、寮内外にみられる様になりました。遠く近く聞える北大寮歌「都ぞ弥生」の歌にもそれがよく表わされています。
 寮の建物も年老いて、所々故障が生じますが、私達のお金だけでは、とうてい修理することが困難ですので、有為会の方々の、御援助を賜り度くお願いします。寮の囲周の松も、大部枯れてしまっていますので植えかえて下さる様お願いします。そして老いて益々盛んな寮にして行きたいと存じます。そのためにも、米沢市近郊の方々が、遠く津軽の海を渡って当寮に入られる様希望します、夏休みなど東京仙台興譲館の諸兄はじめ、来道される方々は、ぜひ当札幌興譲館を利用されることを希望します。
 最後に有為会の御発展と、仙台、東京興譲館の諸兄の全力上げての御健闘をお祈りして筆をおきます。       
   6月8日                              (折原 記)