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米沢有為会会誌復刊4号(昭和30年7月発行)
興譲館長だより(昭和30年、1955年)

東京興譲館

 今日も機械的に山手の電車が騒音を立てて走っている。東京一繁華街新宿の雑踏を避け、勉学に好適な西大久保の閉館な地の一角に″東京興譲館″という標札の門がある。 その中に足を踏み入れる20名有余の学生、それ等は懐かしい故郷の親兄弟を離れ、好学の真理を究めんと志す吾等舎生である。
 諸先輩、郷土の諸団体、諸氏の多大のお力添えによりなった新館落成より1年有余ヶ月、今や全舎生は慶福の絶頂にあることを信じ皆様に感謝するものであります。
 当館の館長として撰井凱夫先生を迎えて一年、本春より、咋年春晴れの学窓を巣立ちました高橋俊龍君を副館長として舎内に迎え、両氏を中心に日夜内外の活動に精出しております。
 寮庭の草本が威勢よく芽を吹き出す3月、日夜生活を共にした、4先輩を送り出しました。その面々を御紹介しますれば、東京一の繁華街銀座の大橋商店に勤められた高橋菊吉君(明大政経)、日本油槽船株式会社へ就職された山下豊君(明大政経)、帰郷され家業に励む傍、郷里の青年中枢核になられた手塚隆片君(明大商)、法律事務所に勤められた後藤昭雄君(中大法)であり、夫々各自の進むべき道に就きました、諸兄の御活躍の程を御報告して、今後の御健闘を祈るものであります。来春の卒業生諸兄も、一流会社を目標に日夜頑張っておられます。
 次に今春、大学受験を思わせる様な4倍の競争である故、詮衡するのにも一苦労であった、新入舎生を御紹介しますと、いかにも技師らしい容貌をした須貝哲也君、外交的な素振りを見せる坂田政志君、優しい上品気な橋本勝典君、背丈は高く鈍重感のある菅原文雄君、張切り坊主の渋谷英一君の五名を迎えた訳であります、そこで現舎生の顔ぶれを以下に紹介しますれば、

    高橋 靖介 (明大 商4年)大阪府
    金子 利雄  (東経大商4年)川西町
    佐藤 勝蔵 (明大 商4年)米沢市
    高橋 廣  (中大 法4年)米沢市
    塩谷 時夫 (日大 経4年)米沢市
    遠藤 道雄 (立大 文4年)米沢市
    川野 希  (日大 工4年)米沢市
    大河原 實 (日大 法4年)米沢市
    結城 喜三郎(中大 商4年) 米沢市
    高橋 秀暁 (駒大 仏4年)白鷹町
    長谷部 英吉(教育大文3年)長井市
    斎藤 實 (教育大理3年)赤湯町
    小森 邦夫 (明大政経3年)米沢市
    田中 武  (法大 法3年)米沢市 委員長
    近野 榮  (明大 商3年)米沢市
    坂野 芳3 (理太 敷3年)米沢市
    須貝 哲也 (東大 工3年)山形市
    大石 道夫 (東大 理2年)東京都
    小川 一郎 (教育大農2年)赤沢町
    佐藤 瑳登 (立正大経2年)米沢市
    高橋 通  (明大政経2年)米沢市
    千葉 忠  (中大 法2年)米沢市
    大武 良治 (東経大経2年)川西町
    斎藤 博  (早大政経2年)長井市
    坂田 政志 (中大 商2年)米沢市
    橋本 勝典 (早大理工1年)米沢市
    菅原 文雄 (明大 文1年)長井市
    渋谷 英1 (東電大工1年)米沢市
であります。
 次いで年中行事を報告致します。盛夏の8月は過ぎ9月10月の学期試験を終え、例年の如く東京支部主催の園遊会は、夏を思わせる秋晴れに恵まれた11月3日、海に程近き浜離宮で開催された。連日の下準備も行き届き、多数の參加者と朗らかに戯れて居る中に夕暮れも迫り、会も終りに近づき田舎より取り寄せた餅及び納豆等のつたない吾々の手料理ではありましたが、いつもの事ながら大変喜ばれました。空っ風の吹く師走の末ともなれば、日頃短くしていた髪も自然と長く延ばして来て、ぼつぼつと帰省し始める。未だ見ぬ年の抱負を胸底深く秘めて夜汽車の旅人となるのだ。雪降る郷里の正月を半ばにして上京する。1月15日が矢の如くやって来る。卒業生送別会である。少しでも早く追い出そうなどという気持ちは毛頭ないが、試験を前にした行事なので例年早目に成人の日を利用し、成人者の祝福とを兼ねて行ったのである。その会の来賓として前館長の北村徳太郎先生、橋本支部長、橋本、中沢両副支部長、櫻井館長、金子芳雄副館長の諸氏あり、乾杯の後各氏の祝福の辞があり、送る者、送られる者の送答の辞、次いで各校の母校の歌を歌い有意義に会を閉じた。
 5月7日、新入舎生歓迎を兼ねての春のピクニックが、侠客の地として知られる上州路にて行われた。
 当日は吾々の願いも天にとどかぬと見えて、ぶあつい雲があたり一面にたれこめている。生憎の曇天であった。
 午前10時35分上野から高崎線の乗客となれば、常日頃の鼻下長ぶりを発揮して、名も知らぬお嬢さんのそばに腰を下し、何にかにと話し込む豪の者もおったが、格別のスキヤンダルもなく、列車は軽井沢へと無事到着する。ここで国鉄の車を乗り捨て、草軽線の特別列車に乗りこむ段取りとなるがそれらしきものも見あたらず。まだ発車時間まで間があるんだろう位に思っていたが、よくよく探してみるとある。トロッコにしては豪華すぎるし、列車にしては貧弱すぎる奇想天外なのが吾々を待ちうけていた。どの様に表現して良いのやら、一寸言葉につまってしまうが、とにかく大正天皇でさえ「これは古い」と云ったのだそうであるから、おしてしるべしである。しかしこれもWさんがいったことであるから案外あてにはならない。
 驚いたり感心したりしているうちに、第1の目的地小瀬温泉駅に辿りついた。怪物電車とのお別れを記念して、シヤッターを切ったが、さすがに観光地の列車だけあって、おつにすましこんでカメラにおさまってくれた。宿に行っては、卓球に興ずる者、風呂に入りびたる者、散歩に出かける者と、それぞれ元気一杯に跳ねまわっていたが、12時をまわる頃には、昼の疲れのせいか、1人の例外もなく上州路での夢をみのらせていた。
 明けて8日、からりと晴れた大空のもとに、宿のお女将さん、娘さんに見送られて、第2の目的地へと向った。北軽井沢まで又々怪物電車にゆられての数十分間である。写真機の部品を落して泣き面をかく奴もおるし、のろのろしている電車を馬鹿にして、のりっぽける人も出る状態であった。
 いよいよ、電車に別れを告げ目的地迄の10数キロを歩き通す決意である。
 あたり一面火山灰におおわれた大平原であり、只細々と一筋の路がはてなく続いていた。火山灰のせいか、サクサクしていて歩きにくいことこの上もない。
 最終の目的地鬼押出しへ全員到着したのが丁度お昼頃であった。その溶岩で形づくられた怪奇な姿は、見る者の眼を楽しませるに充分であり、一方は大浅間、他方は平原を見下ろせる絶景は大自然の英気を養うに十二分なものであった。
 こうしてハイキングの意義が充分にもたらされ、舎生の親密の度をますます加重せしめた吾々のハイキングは有終の美を飾って、幕を閉じたのである。
 日常の生活として、朝は威勢よい蛇口の水音より始まる。洗顔し食堂へ歩を進めれば、ラジオがメロデー混りの朝のお知せをやっている。朝刊を前に食事を済ませ、大急ぎで登校するものもあれば、多分遅く始まるのだろう、未だ床の中で虫も殺さぬ顔をして寝いる者も居る。舎外へ出れば交通機聞で心身共に疲れる。足を棒にして帰って来るこの興譲館は、矢張り吾々にとって憩の場所である。刺戟の多いこの大都会の中で、標準語は外語でもあるかの様に通常使わず、専ら自国語とも云うべき米沢弁で、気楽に語り合いその中に相互の親睦と友情を高めることの出来るのを苦笑せずには居られない。日頃の楽しみと云えば、林芙美子のめしに出て来る初之輔ではないがめし以外にはあろうか、殊に夕飯である、必然か、偶然か神の組み合せであろう、以前は余り知らない者同志が、家庭的、全く家庭的な雰囲気の中で、冗談まじりの話や、時局の話、ラジオに耳をかしながら寮母が腕によりをかけて作った風味豊かな食物を口にすることは誠に感謝に耐えない。
 食後は将に館内はおろか寮庭までが楽園化するのだ。それは他の寮にも見られる様に、部屋へ帰り本を開く者、元気旺盛なる者は土俵を踏み相撲をとる者、グローブを手にする者、クラシックやジャズの言楽に耳を傾ける者、散歩する者等千差万別である。土曜日曜は近所の子供達が遊びに来る。それに2、3の舎生も加わり、広き寮庭も幼稚園さながらの観を呈するのであります。
 9時ともなれば各自の好学に精進する、夜更けの都の様に深夜も尚、部屋の両端には電燈の灯が依然として机上の本を照らしている。中には時間を超越して時局、偉人、主義等について雄弁を闘わしている者もいる。根強き東北の若人に相応しい態度は偉人を暗示させます。この様な平易にして家庭的な生活は、ややもすれば個人主義になり易いのであるが、それを是正し切磋し、逞しさ自己完成へと邁進すべきことを1日として忘れてはならないと肝に命じております。同時に諸先輩の由緒ある足跡を傷付けることなく、全舎生は頑張っている次第です。
 最後に、有為会の発展と諸先輩及び仙台、札幌の学友諸兄の御健闘を祈って筆を置くことにいます。7月3日(田中記)
  東京興譲館 新宿区西大久保4-170

婦 人 懇 話 介(30,3.8)

東京支部園遊會風景(29.11.3)


仙台興譲館

 乾いた砂ぼこりを盛んに吹きあげていた海からの風もおさまり、心地良いそよ風と共に微かにゆれる街路樹の緑が、森の都仙台に一層の趣を添えている。興譲館の近くを流れる広瀬川の河原にも清く澄んだ水のひびきが、対岸にそそり立つ崖に向って涼しげにこだましている。
 ひばりの垣根に灰色のスレート葺きの平屋の建物、軒の下におい繁った雑草がいかにも学生寮らしい。市の中心部まで25分、時折崖の上にある米軍キャンプから飛び立つヘリコプターの爆言以外は耳を煩わす様な騒音のない閑静な場所である。
 今春、山形市篠田病院でインターン研修中の中條仁(医)、山形県庁に就職金子卓司(法)、母校である米沢西高等学校で英語の教鞭を執る本間和夫(文)、大学院に残って更に研究への道に専念する高山鯛蔵(法)諸兄等を送り出したあと、新たに5名の舎生を迎えて、現在の舎生は次の16名である。

    本間 健夫  医4年 米一高卒 米沢市北袋町  総代
    上野 恒太郎 医4年 米一高卒 米沢市久保町
    村上 秀利  工4年 米高卒  米沢市上郷   庶務
    景山 條一郎 工4年 米西高卒 米沢市笹野   会計
    香坂 貞一  法3年 米西高卒 米沢市清水町
    板垣 義次  法3年 米西高卒 米沢市山上   文化
    渡邊 融   工3年 米西高卒 米沢市幸町   厚生
    大熊 徳次  文2年 米西高卒 米沢市北土橋
    安部 俊明  経2年 米西高卒 東置賜郡中川村
    高橋 弘助  経2年 米西高卒 米沢市北袋町 
    本間 達三  経2年 宮内高卒 東置賜郡宮内町
    佐藤 慶吉  工2年 米西高卒 米沢市上郷
    遠藤  健  工1年 米西高卒 米沢市関東町
    塩谷  純  工1年 米西高卒 米沢市片五十騎町
    大浦 徳昭  文1年 米西高卒 東置賜郡高畠町
    佐伯 和重  教1年 長井高卒 長井市大町
 毎年のことながら今年も5名の予定に対して16名もの入舎希望者が押しかけ詮衡には一同大いに頭をいためた。今は近所の子供達の良き遊び場所となっている増築予定地の裏の宅地を見る度に、興譲館増築の1日も早からんことを願わざるを得ないのである。     
 舎生は全部東北大生であるが、学部、教養によって距離に遠近があるので起床時間はまちまちだ。朝寝坊は学生の特権とばかり、のうのうと夢の中にひたっていると、つい寝すごして、顔も洗わず、朝食も抜きで興譲館を飛び出さなければならないこともある。朝の時間が忙しいのに反し、夕食時は一日中で最ものんびりしたくつろぎを覚えるひとときである。殆んど全部の舎生が同じ食卓に会して、小母さんの料理に舌つづみを打ちつつ、その日の出来事などに賑やかな話の花を咲かせるのだ。食卓の上には、家庭にあると同様な雰囲気が漂い、吾々舎生はその雰囲気の中にたゆまざる成長の為の竪張に対する憩いの場を求めるのである。夕食が終れば勉強を始めるまでの時間を碁や麻雀に興じ、クラシックや軽音楽、野球のナイター実況などにラジオのダイヤルを合わせ、あるいは風呂からあがって夕の涼をとりに広瀬川の堤防をぶらつく。またコーラスブックをひろげ得意の咽喉をふるわせる何人かも居る。
 時には、2、3人が連れだって、最も近くの、通称"トンペイ劇場"へ映画をみに出かけることもある。終電車の時刻も過ぎた夜道を薄暗い街灯に照らされ、映画の中に見出した人間像について唾をとばして語り合いながらテクって帰って来るのも印象的である。又、勉強に疲れて阿弥陀コンパに一夜を過すこともある。貧乏クジを引き当ててすっかり人の寝静まった街を歩きまわり果ては寝ている店を叩き起して立派に役目を果して来る豪傑もいる。
 折々はかつて青春時代の大学生活を興譲館でおくり、今は社会で活躍している若い先輩が訪ねて来る。古巣に戻って来た先輩を囲んで、夜更けるまで当時の思い出をなつかしく語り合い、彼の得意気な経験談に熱心に耳を傾けるのである。卒業生のみならず、下宿あるいは寮生活を送って居る同郷の学生もしばしば訪ねて来る。他所では慣れぬ標準語に苦労している彼等も、興譲館に来れば水に返った魚の如くいかにもいきいきと流暢な米沢弁をまくしたてるのだ。

 興譲館ではピンポンが盛んである。食卓用のテーブルをピンポン台に仕立てて、狭い食堂をボヤキながらも結構愉快にやっている。夕食前の腹減らしのつもりで始めたのが、かえって夕食を取ってもまだ食い足りないと云う結果を招く。

 毎年、この欄で指摘されることだが、仙台の様に米沢人の比較的多い地方においては、吾々は一見安易にみえる一つの殻の中に閉じこもってしまいがちである。全国から集まった数百名もの学生を擁する他の学寮からみれば人数も少なく、しかも同郷の学生だけが入っている興譲館の家庭的な雰囲気はまるで温室の中の様におだやかだ。だが、この様に刺戟の少ない世界に閉じこもっていては何の進歩も期待することは出来ない、より巾の広い、完全な人格をつくり上げる為に吾々は求めてあらゆる機会に、あらゆる世界に飛び込んでいこうとしている。
 近頃は長い間強固な伝統を誇って来た興譲館にも徐々に変化が起りつつある。ピンとのりのきいたワイシャツ姿が目立ち、ダンスの心得のあるものも増えて来た。現実の生活を出来るだけエンジョイしようとする努力が目立っている。更に以前の様なあまり破目をはずした行動もみられなくなって来た。最近の興譲館のコンパに大騒ぎ的なものもなくなったのも、単なるマンネリズムの問題としてだけでは片付きそうに思われない。唯、勉強にさえ打込んでいれば間に合った昔と違って、勉強以外に筆耕や家庭教師等のアルバイトを余儀なくされている現代において現実はそれほどに厳しい。この様な環境にあって、舎生達はどのようにして現実をより豊かに着実なものにしていくかということに大きな関心と努力を寄せている。その反面、現実に対してあまりに頑になり過ぎることを嫌い、あくまでも若人らしく溌剌とした情熱の中に生さることを常に感じているのである。

 興譲館の主な行事は4月の新入生歓迎コンバにはじまり、4月29日有為会上杉神社遥拝式及び支部総会、5月の春のピクニック、長い夏休みが明けて皆が日焼けした顔で帰って来ると間もなく役員改選並びに旧役員慰労コンパ、10月秋の有為会ハイキング、年の瀬越して正月の餅コンパ、更に2月の卒業生送別コンパで終る。
 中でも最も楽しく思い出深いのは春のピクニックと秋のハイキングである。昨年10月、有為会の会員の方々と一緒に出かけたのは、市街からやや離れた東北大学第一教養部の丘であった。秋の色深い近くの山々と共に真青に澄みきった空の下にひろがる芝生が美しい。その芝生の上に色とりどりの紙のテープを張り、パン食い競争、魚つり競争、福引等に興じ芋汁に腹ふくらせて、在仙米沢人の親睦を計って一日を終るのである。今年春のピクニックは昨年と同じ松島だがその名もロマンチックな"若ケ岡"と云う場所だった。今年は船に乗らずバスを使った。可憐な乙女も何人か加わり、立ち通し押され通しの車中ではあったが、行くにつれて開けてくる美しい風景に次第に和やかな雰囲気が流れていった。道路の両側に松並木の濃い緑を通してキラキラと白く輝く入江がはっきりと印象に残る。湾内に浮ぶ小島の数々をみはらかすことの出来る丘の上で、一同手分けして炊木を拾い、肉汁を料理して、松林の下でその醍醐味を十分に味わったのであった。腹が充たされるとゼスチュアを始めたが、同性心中やゴジラ、はては貫一、お宮、七人の侍等の迷演技に抱腹絶倒したのだった。海岸の砂浜ではバレーに興じた。危うく海に落ちそうになったボールを必死に追かけ、あるいは砂の上を這いまわり時間の過ぎるのも気づかぬ程で、名残惜しい気持のうちに帰途についた。帰りのバスの中で期せずして起ったコーラスの、エンジンの音にかき消されんとした歌声は、丘の上や海岸での数々の写真と共に吾々の青春時代を飾る思い出の一つとして永久に心のアルバムに刻みこまれたのである。

 もう旬日あまりで夏休みが始まろうとしている。日赤の診療班に加わって過すもの、遠く関西まで工場実習、見学旅行に出かけるもの、山や海のキャンプに參加しようと今から張り切っているもの、ずっと仙台に残ってアルバイトをしようとするものなど、すでに様々のプランが立てられている。夏休みが終って舎生全部が又揃った時には休み中の夫々の体験が賑やかに語られることであろう。
 有為会の方々並びに東京、札幌両興譲館諸兄の御健闘を祈る。
                        (遠藤記)
  仙台興譲館 仙台市角五郎丁12


札幌興譲館

 ここ北の国北海道も、6月の声を聞けば街路樹も新緑に彩られ、ライラックの花がロマンチックな香りを漂わす、最も良い季節となります。今迄厳しい寒さに閉じ込められ、専らストーブと親しんで部屋に蟄居していた寮生も、春が来ると共に、大いに戸外に出てキヤッチボールに、バドミントンに打ち興じます。
 寮に入ったばかりの時は、海を越えて遥々やって来た自分を、ともすると過剰に意識して、ホームシックな念を禁じ得ない者もありますが、日が経つにつれ、又札幌の持つ自然の良さが分るにつれて、同郷の士と共にここ北海道の大学に学ぶ者の幸福を味わう事が出来る様になります。
 ここで、札幌興譲館(通称米沢寮)を簡単に御紹介しますと、クラーク博士が″ボーイズービー・アムビシアス″と叫んでその礎の残された北海道大学を離れる事2丁、閑静な立木に囲まれた2階建洋館風の古風な建物であります。誠に、若しも、呼べば答える程の近さを走る列車の騒音がなかったならば全く勉学に絶好の環境と申せましょう。
 然しこの音も慣れば、汽笛は子守唄、建物の振動は幼き日の揺り籠の夢を再現させてくれるのです。
 我々の寮は、下宿難の声が聞かれる現在、6畳の洋室にベッド、机等を置いて、各部屋一人で、学ぶ者にとって理想的な状態というべく、皆感謝の念を持って、日々の生活を送っています。しかし、ここにひとつ考えるべき事は、この様に個々の生活をしていると、寮というよりはむしろ、アバート化してしまう恐れのあることです。そこで、この弊害を取除く為に、寮生同志気楽に相集ってダベったり、或いは又麻雀に、囲碁に、将棋に、娯楽の時間を持つべく、集会の部屋があったのですが、本年度は入寮希望者が増加した為、止む無く個人の部屋として使用している現状です。
 在寮生氏名及び出身地は次の通りです。

    今野 儀兵衛 北大工学大学院 1年 米沢市
    丸山 義皓  〃 農学 〃 1年 東村山郡津山村
    山下 和夫  〃 文学 〃 1年 山形市
    三浦 隆    〃 工学部  4年 南村山郡本庄村
    藤田 浩也  〃 医学部   2年 東村山郡明治村
    佐藤 道男  札幌医科大学  2年 北海道旭川市  (総代)
    山口 尚   北大農学部   3年 南村山郡上山町 (会計)
    井上 昌平  〃 教養部   2年 山形市
    折原 美代治 〃 〃     1年 北村山郡尾花沢町
    丸山 保治 北大教養部  1年 北海道芦別市
    富澤 利雄 札幌短期大学 1年  〃 多度志村
    大石 力  札幌學院       〃 上斜里村
今春の卒業生は4人で、うち2人は大学院に進み、二人が(農学部出身)前途の希望に燃えて、在学中に磨いた腕を社会の為に発揮しております。そして入れ代りに5人の新入寮生を迎へ、5月5日夜、歓迎コンパが行われました。本寮は場所柄、北海道出身の米沢縁故者もおり、北海道の漁場に伝わるソーラン節など郷土色豊かな歌を出せば、米沢、山形の出身者も夫々お国自慢の歌で応酬し、飲む程に、酔う程に、宴は高潮して、夜の更けるのも忘れてしまう程でした。
 12月に行われる卒業生歓送コンパも、共に同じ釜の飯を食った寮生活でなければ味わえない、人間の心に触れるものを感じる事の出来る最も楽しい行事のひとつです。
 夜も更け、宴も終わってから、北海道特有の猛吹雪の中を歩き廻った後に咽喉にする、一杯のビールの味は、北海道ならでは味わえないものと思います。この様なコンパの時は、寮の小母さんも常に皆の中に入って、共に楽しさを分ち合います。
 先日は、初夏の薫風に誘われて、市郊外の石狩川の河口に近い、「茨戸」と云う水郷遊園地へ行って来ました。生憎風が強くて、ボートの上から帽子を湖水に吹き飛ばす一幕もありまたが、全員元気で大いに歌い、郊外の景観を満喫して、浩然の気を養いました。

 次に寮内の事柄に就いて少し......。
 全国でも有数の物価高の都市である札幌における寮生活は、必ずしも、満足なものとばかりはいきません。何と云っても悩みの種は、如何にして寮費を或る限度に保つかと云う事で、寮生総会の度毎に議論百出します。
 成長盛りの我々には、或る程度の栄養分は絶対必要なのですが、これを守る為に、寮の小母さんの苦労も並々ならぬものがあります。
 幸い、寮の横に約三百坪の土地があるので、これを出来る丈活用して、自給自足に努めています。春先、寮生総出で畑を耕し、種を蒔いた努力の結晶が、夏頃から、味噌汁やお菜の中に顔を出してくるのを見るのは、楽しいものです。
 何処も同じ事ですが、我寮の学生も、時間をやり繰しては、アルバイトに依り学費の足しを得んとしている姿が見られます。
 職種も、家庭教師、測量助手等様々です。
 昨年10月寮生のひとりである北大農学部の丸山義皓君が、日米学生会議に日本代表の1人として出席のため渡米した事は、札幌興譲館の誇りとも申せましよう。約1ヶ月滞米し、方々を見学された後帰国して、現在も又寮生の一員として活躍して居りますが、彼の帰国談は滞米中に撮影したテクニカラーの写真と共に、充分我々を楽しませ、且つ、啓蒙してくれました。
               
 我々の寮は、隣に仙台寮、更に附近に会津寮、秋田寮、長野寮等があり、前述の如く閑静な勉学に好適の地にあります。寮生はその中で、自己を磨き、互に切磋琢磨し、青春の貴重な時間を意義あるものたらしめています。夜遅く迄燈下で書を繙く者、甲論乙駁して夜の明けるのも知らない者等々、真理を探求する学生の真剣な姿が見られます。
 又或る時は、街の灯に誘われて外出した者が、大いにメートルをあげて帰寮し、人の世に生さる事の楽しさを談じ、果ては又女性に就いて語り及ぶのを聞くのも楽しく、彼の為に北海道の女性との間にささやかなロマンスの生れるのを祈りたい気持になります。本寮も、上村前館長、大橋支部長を始め有為会の方々の御尽力のお蔭で、故障個所の修理も行われ、建築以来二十数年の歴史を誇りながら、発展の一途をたどっております。
 そして、我々寮生は優秀なる後続者諸君が若さ情熱を抱いて、この北海道の地に雄飛せられん事を切に期待しております。
 では最後に、有為会の今後の発展と、東京、仙台両興譲館諸兄の御健闘を遥か北の窓から祈って筆を置きます。
                                    (佐藤記)
    札幌興譲館  札幌市北7條西12丁目