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米沢有為会会誌復刊3号(昭和29年7月発行)
興譲館だより(昭和29年、1954年)

東京興譲館

 昨年の10月待望久しき興譲館復興第2期工事が、諸先輩の深い御理解と並々ならぬ御努力に依り、無事完了し旧館の後に木の香も新しい2階建ての新館が建設されました。
 色々と御骨折り下さいました、諸先輩に誌上を通して厚く御禮申上げる次第であります。合生も、一躍27名と質的にも量的にも大発展をとげ、諸先輩の期待に添うべく、日夜努力致して居ります。今後共宜しく御指導の程御願申上げる次第であります。
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 昭和24年に復興された、興譲館の初代館長として今迄我々舎生より「親爺」の如く親しまれ、愛され、尊敬された北村徳太郎先生が、公私共多忙を極むるに致り、今年1月15日を以て辞任せられ、副館長の櫻井凱夫先生が2代目館長に就任されました。
 北村先生が辞任されると聞いた時、僕達はほんとうにがっかり致しました。然し後任に櫻井館長を迎えて、意気込みも新に僕達舎生一同さらに一致団結して、より良い興譲館とする事が、北村先生始め諸先輩の恩恵に対する感謝の印だと信じて居ります。
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 以上2つの事柄は、舎生に取って特筆すべき事だけに、ここにあえて筆を取った次第であります。次に漸次興譲館の現状及び歴史ある行事に就てお便り致したく思います。

現舎生は27名でありまして、次にそれを紹介致します。
  山下  豊君 (明大政経4) 米澤市
  高橋 柴吉君 (明大政経4) 米澤市
  手塚 隆治君 (明大商科4) 米澤市
  後藤 昭雄君 (中大法科4) 米澤市
  高橋  廣君 (中大法科3) 米澤市 庶務委員
  金子 利雄君 (東経大商3) 小松町 会計委員
  遠藤 道雄君 (立大文科3) 米澤市 食事委員
  高橋 靖介君 (明大商科3) 大阪府 総代
  川野  希君 (日大工科3) 米澤市
  大河原 實君 (日大法科3) 米澤市
  塩谷 時夫君 (日大経済3) 米澤市
  佐藤 勝蔵君 (明大商科3) 廣幡村
  結城喜三郎君 (中大商科3) 米深市
  高橋 秀暁君 (駒澤大 3) 蚕桑村
  横山 哲夫君 (干葉大理2) 十王村
  斎藤  實君 (教育大理2) 上ノ山
  長谷部英吾君 (教育大文2) 長井村
  川合 清夫君 (日大工科2) 宮内町
  近野  榮君 (明大商科2) 山上村
  坂野 芳三君 (理科大 2) 塩井村
  小森 邦夫君 (明大政経2) 米澤市
  田中  武君 (法大法科2) 南原村
  大石 道夫君 (東大理Ⅱ1) 東京都
  関根 忠幸君 (明大政経1) 東京都
  高橋  通君 (明大政経1) 米澤市
  佐藤 嵯登君 (立正大 1) 窪田村
  小川 一郎君 (教育大農1) 宮内町

 今春欠員6名の所に、申込者実に30数名と云う猛烈な競争率、選考委員が反対にへばってしまと云う一駒があった程です。1日でも早く、少しずつでも良いからこの様な状態から解放されたいものであります。
 次に今春目出度く卒業された諸兄の就職先を紹介致します。高橋俊龍君(教大)遠く北海道に行かれ、十勝教育研究所にて北海道の教育研究所にて北海道の教育行政に献身して居られる由、井上清君(早大理工)は東京シャーリングKKに勤務され真面目な人柄は同社の範とされている由、木村敬生君(東農大農化)は日東澱粉KKに勤務され日夜の別なく彼独特のねばりを以て研究されている由、松岸吉晴君(東歯大)は四月無事国家試験に合格され、小松町の自宅にて開業大繁昌の由、加藤明彦君(日本医大)は付属病院にてインターンの真最中、各自各々自分の進むべき道に就き、大いに御活躍の程を御報告して、今後の御健闘を祈る者であります。来春の卒業生諸君も、そろそろ就職試験も押しせまり、日夜奮闘されて居られます。デフレ政策の影響で仲々楽ではなさ相でありますが、全員就職の朗報を今から皆で期待しているのであります。次に今春、狭き門を無事通り伝統ある興譲館に入られた諸兄を紹介致します。
 中大3年結城喜三郎君(米西高)、東大1年大石道夫君(麻布高)、明大1年高橋通君(米商高)、教育大1年小川一郎君(宮内高)、立正大1年佐藤嵯登君(米西高)、明大1年開根忠幸君(園芸高)、駒沢大3年高橋秀暁君(長井高)以上7名であります。とに角、東京にて米沢弁が通用するこの所で、新入舎生も在舎生もお互いに友情を信じ、夜のふけるのを忘れて、勉学にいそしみ自己完成へとがんばっている姿は尊いものであります。
 次で、行事の御報告をいたしましよう。昭和28年10月11日、終に我々待望の第2期復興工事も完成し、その落成記念祝賀会が相田会長、北村館長始め、諸先輩16名が来館され喜びにあふれた舎生と共に、盛大に催されました。北村館長の設立迄の並々ならぬ苦心の程が、報告され舎生一同更めて感謝の念を深くした次第であります。次で相田会長の祝辞があり、諸先輩のユーモアたっぷりな興譲館昔話があり、舎生代表として総代が感謝の言葉を述べ無事終了した。この時の舎生の気持は、とうてい書き表わす事は不可能であります。とに角夏休みが終り上京して、未だ完成されない中から大工さん達に叱られながら、毎日毎日各部屋をのぞき廻り『俺はこの部屋だ』、『貴様はあの部屋に行け』と丸で子供のけんかの様にして、1日も早く完成するのを待って居たのだから、無理もない話であります。
 明けて昭和29年1月15日、恒例の新年宴会が北村館長送別会を兼ねて渋谷ガーデン協会にて催された。舎生一同複雑な気持で出席、北村館長より辞任せざるの止むなきに至った事情が述べられ、次で櫻井新館長が紹介され、新館長の抱負が述べられ、舎生代表から20分近く、北村前館長への送別の辞、櫻井新館長へ祝福の辞が心の底から述べられ、後悲しみと喜びの交錯した気持をまぎらわす為、唄いまくった。日頃絶対に聞く事の出来ぬ、北村前館長の『一高オンチ、即ち歌は一高寮歌しか歌えない』を聞く事が出来愉快だった。最後に北村前館長を『螢の光』の合唱を以て送り興譲館の″萬歳"を呼んで今年のスタートにふさわしい新年宴会を終った。                
 2月に入れば、就職戦線も一段落し、学生にとって唯一の楽しみである試験に突入、新館の窓にも夜遅く迄、灯がともり雄大なる感に打たれる、この中にあって時期的に尚早の様であるが、卒業生の送別コンパが櫻井新館長を迎えて行われた。一同卒業生の祝福を祈った後、後は野となれ山となれの祝宴、矢でも鉄砲でも持って来いだ、近所の酒屋は酒豪揃いの面々に目を丸くして成行如何と見守る、然し、心配無用皆自分の酒の量をわきまえ、決して度を越さぬ。ただ普通人より適量が多いだけの話である。3月になると青雲の志を抱いた受験生が休暇をこれ幸と利用して上京して来る今年度延人数にして460名、興譲館に落した金が6万数干円、全く受験生ブーム、有難いやら、迷惑やら、4月ようやく冬型気圧配置から解放され興譲館の庭の草木にも春のいぶきが感じられる頃舎生も新学期となり心身共に、一新して上京して来ると、29日上杉神社遥拝式及び興譲館祭りが行われる。相田会長、桜井館長始め診先輩と共に祝宴をはる、遥るか上杉神社を遥拝し、後諸先輩の御高説を受け賜り、舎生側も啄木の『故郷の山に向いて......』を詠じる者、有為会に対する意見を発表する者等ありて有意義に送る。5月には卒業生に依って生じたギャップも、新入舎生でうめ尽くされたと同時に新入生歓迎コンパが持たれる。始めの中は遠慮し勝ちな新入生も、アルコールコンベアーに依って完全に表裏一体となり新入もくそもなく愉快に過した。5月22日、恒例の春季ハイキングが群馬県神津牧場より長野県小諸に出るコースで行われた。                     
 あいにく出発当日は雨降りだった然し我々は、前夜遅くまで各自が自慢の腕をふるってこしらえた、寿司、サンドウィッチ、にぎり飯等をさげて、ささやかな期待を持って出発した。然し、我々の期待は裏切られ一日中雨降り、途中電車の窓から雨に霞んだ、新緑に燃える山々を眺めて各自故郷を思い出したのであろうかじっと見入るばかりであった。途中から一緒になった″7人の待″ならぬ"7人の女"のため暗い気持も幾分和らいだ様だった。所が、いざ牧場に到着し、案内所の新館はと見れば、見るも無残な馬小屋同然の姿でがっかりした。その上なお腹の立つ事には、こんな所にまで資本主義的経済政策が実施されている事であった。ただ金さえ取れば後は一切知らんと、雨にぬれた我々は、哀れにも。"ムシロ"より薄い"蒲団"を2枚押しいただきまんじりともせず一夜を明かした。明れば雨も止み、霧は少し深かったが晴れた天気であった。哀れなる"流浪の民″は記念のシヤッターを、あちらこちらで切り、ほどほどにして山を下りる、下りはさすがに元気で、歌等を歌い藤村の「千曲川旅情の歌」で、有名な小諸に向う、小諸城跡は今では記念公園となって居り、日曜日の関係もあって、多くの市民がたむろしていた。
 我々も昨日のうらみを取り戻すのは、この時とばかり記念写真を取る、展望台より眼下に見下ろした干曲川の雄大な流れは、発電所の水門に依り、幾分美観をそこなわれたが、我々を解放して来れるに十二分であった。かくしてスタートは余り芳しくなかった我々のハイキングも、見事なゴール・インで終止符が打たれた。最早や特筆すべき行事もないだろうと、総代日誌を開いた途端、あ思い出した。1年中でいや興譲館生活で我々を1番楽しませ、また1番苦しませる園遊会の事である。昨年も、例年通り菊花薫る11月3日、浜離宮に於て、6百名と云う戦後最大の參加者を持って行われた。今回から舎生も増加したので、楽な事は楽であったが、それに応じて仕事も増加するし、結構同じ事である。忙しい中をさいてこの時とばかり見事なチームーワークを遺憾なく発揮する舎生の姿に、皆感謝して下さる、うれしい事だ。
 どうやら行事の紹介も尽きた様だから最後に興譲館自体について2、3お便りして置こう。我々にとって不可解だった後の土手の″オフ・リミット″の立札も取り去られ、殺人の練習か無くなり、一応平和な状態に戻った。周囲の空地にも続々と、いわゆる、文化住宅が建設され最早、横に拡張する事が出来ず、上下にしか拡張出来ないだろうとされている中で、我が興譲館は、650坪の土地を有して我々に十分の、憩を興えてくれる、一方北村前館長寄附の木々も年々歳々多きくなり我々とその生長振りを、競走している様である。
 他方毎日の興譲館生活の中で、1番の楽しみは何と云っても夕飯とその後の、解放された時間である。朝に夕に満員電軍で学校に通う様な状態でくたくたになり、疲れた身体を横にしている時、「飯だ」の一声は全く何とも云えぬ、有難味を感じる。十二分にかみしめかみしめして食った、飯の味は毎日の事ながら忘れ去る事は出来ないものである。その後は麻雀を打つ者、将棋をする者、ラジオにしがみ付いて、時事問題に、浪花節、ジャズ、歌謡曲と、一切合切を聞き逃すまいとする者、御経でも読んでいるのかと、耳を澄ましで聞いて見れば、何とコーラスだった、と云う様に実に多士済々楽しい生活である。然し、我々が常に注意していなければならない、危機意識が近頃ではややもすると、忘れ勝ちであるのは残念な事である、それは興譲館自身のマンネリズム化である。いわゆる舎生の一致団結も、反省、批判がなければ何の意味もないし、またより良い環境を作り、興譲館を真の学問する場とする事は、出来ないのではないだろうか、それでは、その様な事は、何処から生ずるのであろうか、第1は、一定のカラーに染まった人間の集りであると云う事、第2は、ただ単に安いと云う事のみで、有為会の歴史及び使命を全然理解しないと云う事、第3は、共同生活の中で自己を見出さす、徹底した個人主義をとり、アパート的なまた下宿屋的な気分が充満している事。第4は、御互にけんかをする事を忘れていると云う事、以上4つの点が常に、興譲館を1つの、危機状態に陥し入れていると思われます。相田会長が、常に云われる。"学生は何をしているのだ"と云われるのもここに通じる様に思われます。我々舎生は、この様なものに打勝つてこそ、真の興譲館の有るべき姿が出来上り、同時に諸先輩の残された輝やかしき足跡を、けがす事なくやつて行けるのだと信じている次第です。
 とりとめもなく、長々と書いてしまいましたが最後に、有為会の大発展と諸先輩及び仙台、札幌の学友諸兄の御奮闘を祈ってこの筆を置く事とします。
6月23日(高橋靖介記)
 東京興譲館 東京都新宿區西大久保4ノ170
(電四谷(35)3611)

上杉神社

東京興譲館増築落成記念



仙台興譲館

 Y君、其の後長い関御無沙汰してしまったね。相変わらず御元気の事と思う。君と米沢で会ってから早くも1年経ってしまったのだね。あの時は楽しかった。その後いつも便りを書こうと思っていたがつい果せなく申し詳ない。今日は僕が今送っている興譲館生活の一端をお知らせしよう。
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 今この便りを書こうとしで机に向っていると聞えてくるのはしとしとと降る雨の音だけだ。僅かに誰かがかけているのかレコードのクロイツアルソナタが美しい。実に静かだ。.........
 君は仙台はまだだったね。仙台興譲館は仙台でも最も恵まれた環境に位置している。徒歩で大学本部には30分、医学部には15分、市内の目抜き通りたる東一番丁には25分の近距離にある。乗物の便も良にい。しかも附近一帯は全て住宅地で閑静そのものである。すぐそばを河鹿で名高い広瀬川が流れている。大学が市街の中央にあるせいもあって喧騒な市井から寮に帰るとそこには我々は我が家以上の寛きを覚えるのだ。このすぐれた環境にあって青春を送り得る幸福を我々は、いつも感謝しているのである。
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 僕も含めて寮生活を共にするものは16人、その中には君が知っている人も居るしまた知らぬ人も居る。名を揚げると

<4年>
中 條   仁  東北大医 米中卒  米澤市桂町   厚生
高 山 鐵 蔵  東北大法 長高卒  西置賜郡荒砥町 炊事
金 子 友 次  東北大経 長高卒  西置賜郡鮎貝村
本 間 和 夫  東北大文 米高卒  米沢市館山本町
金 子 卓 司  東北大法 米高卒  東置賜郡高畠町 会計
<3年>
本 田 健 夫  東北大医 米一高卒 米沢市北袋町  総代
上 野 恒太郎  東北大医 米一高卒 米沢市久保町
村 上 秀 利  東北大工 米高卒  南置賜郡上郷村
景 山 條一郎  東北大工 米西高卒 米沢市笹野
斉 藤   誠  東北大法 米西高卒 米沢市清水町
<2年>
渡 邊   融  東北大工 米西高卒 米沢市越後番匠町
板 垣 義 次  東北大法 米西高卒 南置賜郡山上村
香 坂 貞 一  東北大法 米西高卒 米沢市清水町
大 熊 徳 次  東北大文 米西高卒 米沢市比土橋
<1年>
遠 藤   健  東北大工 米西高卒 米沢市圓東町
安 部 俊 一  東北大経 米西高卒 東置賜郡中川村

 毎年4月の入学期になると舎生か頭を悩ますのは入寮者の選考だ。選考は舎生の公明選挙により行われる。
 今年は2名の欠員に15人もの希望者が殺到した。この期になっていつも我々の痛感することは、興譲館増築の急務なる事で之が実現の一日も早からん事を念じているのだ。
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 所で僕等の寮は郷土寮だ。それは美わしい伝統を持つがまた大きな欠点を有している。
 ともすれば舎生がその家庭的な雰囲気の中に米沢人と云う1つのからの中に閉じ込もってしまい勝ちだと云う点である、講義から解放されて寮に返って来るとほっとしてしまう。夕飯を食ベてしまうとラジオに聞き入るもの、新聞を囲んで談笑するもの、碁、麻雀に打ち興ずるものなどそれぞれを見ても兄弟の如く和気藹々とした平和な団楽の光景の現出するのも郷土寮ならではの事だろう。ここだけは米沢弁の天下だ。やがでそれがすむと長い夜を思い思いの勉強に過すのもあるし、また時には話に余り実が入り過ぎて一晩中駄弁って過すこともある。
 その結果舎生聞の結合は強固で、チームワークは見るからに完全そのものだ。しかしそこには何か弱さがひそんでいる。人生に対する積極的な意欲はともすれば失なわれてしまうのだ。僕らは世界から隔離された温室の中で脆弱な花を咲かせるために学ぶのではない。他日、喬木となって社会の暴風雨と戦うべき「不抜の根」を地中に張るためだと云うことを、更に強く自覚し郷上寮の良き所を更に助長し、悪しき点を是正し、より良き向上の為、努力しようと思っているが、之はとても難かしい事だ。
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 郷里を同じくするものと云っても16人も集まればその個性は様々だ。身振り手真似宜しく巧みな話術とユーモアの持主も居れば「沈獣は金」の履行者も居る。柔道初段、野球のチャンピオンと云うファイト旺盛な快男子や夜風呂場で1人モーツァルトやベートベンを弾くヴァイオニストや1日中シューベルトを歌いまくる我が寮のテナーもいる。更に画筆を握ってはピカソ、マチス顔負けの名手や麻雀自称10年の古強者や囲碁の名手も居る。誠に多士彩々である。寮では野球チームも作っている。監督の作戦やインサイドワークの方は大したものだが技量未だ相件なわず、他寮との試合にも余り芳しからざる戦跡を残してはいるが希望新人(まさか選考の条件としたわけじゃないが)が入ったので近い中に昔日の黄金時代に立戻ることだろう。
 夏休みには、君も知っているK君などの東京興譲館の諸兄と交歓マッチを行いたいと思っている。時には君も覚えがあるだろうが夜集った時など阿弥陀をやることもある。大当りに当って最高額を負担しおまけに買出しも後片付けも自分1人でという傑作もおきたりする。また有為会費集金の際、先輩宅に上り込んですっかり御馳走になったりする。また時には寮生打ち連れて先輩宅を襲ったりすることもある。仙台での有為会は昨年辺りから急速に盛会となり雑務にあたる舎生も大いに張り切り甲斐のあると云うものだがただ物足りたく思うことは我々とヂェネレーションの近寄った若い先輩が非常に少ないと云うことだ。
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 寮生一同が同郷の学生を誘って秋のハイキングを台の原に行ったのは昨年の10月18の事だった。台の原と云うのは仙台の北方にある丘と草原の地で風光絶佳、西には蔵王がその頃に雪を戴いているのが遠く望まれる。我々は高く澄み切った秋室の下で紅葉し始めた木々の開を縫ってやがて来る寒さを吹きとばし、1日を楽しく過したことであった。
 春になって木々の緑が盆々濃さを増して来る頃、我々は春のハイキングに出かける。今年は松島海遊覧である。5月16日僕達は塩釜から船で松島の島々の間を廻り大鷹森で船を捨てた。そこから遥かに望んだ太平洋の青さ、眼下に見下す箱庭の如き島々は帰途遊んだ野蒜海岸不老山の景観と共に長く我々の青春を彩るものとなることだろう。
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 夏休みが終わって日焼けした元気な顔が再び揃うと役員改選コンパが開かれる。旧役員の労を慰い新役員の奮闘を促がすのだ。やがて年の瀬のコンパで1年の総決算をし明けて1月16日恒例の餅コンパが行われる。かく楽しくも慌しい中に2月に入ると試験が始まる。
 寮生は「出来た」「駄目だ」と悲喜交々終わった後の何ともいえぬ解放感。其の間種々の都合で時期的には尚早だが舎内の卒業生送別会が行われ、幾年か寝食を共にし苦楽を分ち合った先輩の前途に多幸あれと、万感こみ上る中に盃を汲み交す。惜別の情は3月7日に行われた。
 有為会主催の送別会で最高潮に達したのである。明けて4月新入生を迎えて舎内には再び向上への生活が始まるのだ。
 4月29日と言えば仙台では桜の蓄がふくらんだと見るまにもう花びらが窓にふりそそぐ頃である。この日寮では恒例の上杉神社遥拝を兼ねて支部総会が催された。僕らは故郷の桜を偲びながら先輩と酒を汲み交わし有為会の発展を祈ったのである。
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 我々は毎日々々徒らに遊んでいる訳ではない。家庭教師や筆耕をやっているものもある。毎日のように図書館に通い勉学に励むものもいる。大学のセツルメントの一員として、人々のため親身になって相談相手となっている舎生もいる。その他舎生の何れもが出来るだけ社会の現実に触れ、実社会の現象を冷静に客観し同時に学の道に自己の生命を吹き込んで行く情熱に燃えているのだ。
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 やがて、待望の夏休みが近づきつつある。昨年迄は学生であった君も夏休みの憶い出は尽きぬだろうが、今年こそは勉強するぞとばかり山のよう書籍を持って帰郷し、さて休みが経ったらその1冊だに、手さえもかけなかったなどということのないように努力しようと思っている。学窓を出て社会人となった君もお盆には帰郷される由再会が今から楽しみだ。いろいろとりどめもたく書き綴ったが寮生活の一端を見てくれれば幸いだ。では炎感、日毎に加わる折から、いよいよ御自愛の上、御活躍の程祈っている。     (本田記)
    仙台興譲館 仙台市角五郎丁12 (電4790)

札幌興譲館

 札幌市北七條西12丁目、何ら手の入れる事なく伸び切ったトドマツに囲まれる一角、赤い屋根に茶色の壁、これが札幌興譲館である。昨年までは、窓は破れ壁は落ち屋根は雨露をさえぎらぬ荒廃ぶりであったが、幸い昨年本部からの援助を得、在札米沢人の御努力により、雨漏を防ぎ屋根を塗り壁を直し、洗面所、台所の腐朽箇所を修理し、更に水道栓を増設して見違えるように立派な寮になり、西隣りに並ぶ会津寮、仙台寮、秋田寮と比較しても我々寮生は誇らしく思っている次第です。これは実に有為会諸賢の御援助の賜物であり、寮生日々感謝致しておる所であります。
 「吾が恋はリラの樹影に」の紫のリラの花も散り、谷間を埋める可憐な鈴蘭の季節も去り、全道を沸き返えらせた札幌神社の祭もようやく終わり、香り高きアカシヤが緑の風に漂う頃になると、北国にも本格的な夏がやって来ます。緑もいや増したトドマツの垣豊かに広がる芝生に囲まれる札幌興譲館は、浪漫主義文学の描く「ロマンテイーク」そのものであります。
 各部屋は板敷、ベッド式で1部屋1人であり、海1つはなれた北国の生活を一層エキゾティックなものにします。北国の自然は美しいがそれだけにまた巌しく、容赦なくぐいぐいと、感じ易い若者の胸に迫ってきます。ここに自然との対抗に於いて深く自己を見詰め、人世観、世界観を鍛えずにはおれなくなるのです。
 自然はきびしい、それだけにまた人間の絆は強い、金はなくとも財布をはたいては一緒に焼酎を飲み、真理を談じ、社会を論じ、果はまた女性を語ります。寮の小母さんは寮生総員の慈母の如くであり、寮生はさながら自らの母の如く甘え、小母さんは自分の子供の如く寮生を愛し、いろんな無理難題を不平も云わず引受けてくれるのです。寮舎修繕を行う前は、水道1つしかなく、しかも故障つづきで非常に苦労されたが、長い年月辛抱してくれました。ささやかな「ダベリの集い」では小母さんは常に会の中心であり、共に若き日を語り幸多き春を謳歌し、悩み多き青春の想い出に寮生と共に涙を流す小母さんです。寮生は老境に入られつつある小母さんの健康をひたすら祈念しています。
 今年、札幌興譲館では開館最初の女の学生を迎えました。米沢市外芳泉町出身、北海道岩見沢高校卒業の秀才であります。当初、寮生は色々困難な事態を予想しましたが、上村館長の信念に燃える指示により、入寮してもらいましたところ、当初の懸念は寮生相互の努力によって1つ1それを克服し、その結果、男だけでは得られぬ新たなハーモニーを確立し、寮生活はスッキリと運営されております。
 現在寮生は次の如くであります。
  風 間   登(北大農大学院)北海道旭川市
  今 野 辰 次(北大農4)東置賜郡小松町  
  丸 山 義 皓(北大農4)東村山郡津山村 総代
  山 下 和 夫(北大文4)山形市 会計
  伏 見 彰 裕(北大農4)北海道釧路市
  三 浦   隆(北大工3)南村山郡本庄村
  藤 田 浩 也(北大啓1)東村山郡明治村
  門 間 邦 夫(北大農1)南村出郡木沢村
  佐 藤 道 男(札幌医大1)北海道旭川市
  山 口   尚(北大教養2)南村山郡上山町
  井 上 昌 平(北大教養1)山形市
  石 川 喜代子(北大教養1)北海道空知郡北村

 右を縁故開係別に見ると米沢人二世および縁故者6名、山形地方開係者5名、その他1一名となります。
 今年の新入生歓迎コンパは女の学生を入れた始めてのコンパであったが、例年同様ガマの油、クンズラコ取り等夫々、お国自慢のかくし芸が飛び出し面白く行われた。しかし禅一本、スキーをもってあばれ出すストームは、到々現われず、古い者は何となく残念な所があった。その替り、ソプラノを混えたコーラスが幅を利かせた。面白い変化であると思う。
 女の寮生と云えども、性別に依る以外には何ら差別をせす、各寮生共フライな気持て交っている。古い考え方では女人禁制の如く考えられている寮生コンパにも出来るだけ參加してもらっています。しかし、何時か夜半12時頃緊急コンパを開催するため彼女を叩き起したのは今になって考えると気の毒であったが、彼女は快く飛び起きて參加してくれて助かった。この頃では、高校コーラス部のメンバーであった彼女のソプラノを認め、ギターを持ち出して伴奏をやる器用な寮生も現われて来たが、端で聞いていても中々の風情である。
 ちなみに、彼女はこの頃全くの黒猫を飼い始めたが、「静かなるドン」に因んで寮生に依り「ドン」と命名された。僕等が出掛ける時、帰った時、どこで聞いているのか、さっと飛び出して来て愛嬌をふりまく小母さんの愛犬「シロ」と並んで寮生の生活から欠く事の出来ない可愛いペットとなる事と皆から期待されている。
 6月始め、札幌神社の祭に先立って、有為会札幌支部の家族懇親会を兼ねての総会が開かれ、寮生は例の如く労力を奉仕、寄附の募集に廻る事になった。支部長からの依頼状を持って行くのではあるが寮生は大抵何時もゲルトピンチにあり、その方面の苦しさは知り過ぎる位知っているので、自分が金を出させられているような気持でした。幸い皆快く応じて下され目標額を達成し、緑燃える植物園の芝生で多数会員の參加を得てパン食競走、ローソク競走と楽しい時を過せたのは、近頃にない快適さでした。しかし寮生にとって楽しいのはその後の慰労会であり、館長自ら生ビールの大瓶を下げて參いられ、寮生と膝を交えてビールを汲み交わし、労をねぎらわれ激励の言葉を下され、やがて一座紅を差すに及び館長自ら華々しいロマンスを紹介され、寮生も負けすに若い熱烈な愛の歌で応酬し、夜の更けるのも忘れて打ち興じたのは、興譲館に於いてのみ見られる集と信じております。
 札幌興譲館には北海道にふさわしく広い畑がある。しかしまた開拓地によく見られるように土地が痩せているため、殆ど放置同様の状態にあったが、今年度はガッチリ農事委員を作り、その企書に従い総動員して耕起と施肥し採種した。幸い葉菜類は良く育ち毎日の炊事にふんだんに使って余りある程の出来栄えです。きっと之からの寮費はそれだけ負担が軽くなる事でしょう。
 しかし札幌は物価高に於いて全国的に有名な所であり、小母さんの献身的努力にも拘わらす寮費は月平均3千8百円位である。それに冬ともなれば少なくとも半トンの石炭を各自購入しなければならないが、これは悩みの種である。
 会津寮、秋田寮、仙台寮等は世帯が大きく30人台であるので経常費の負担は1人当り大した事なくなるのだが、興譲館では12人なので、それが大きく響き、小母さんの給料も充分払えずその上冬の石炭代は全然払う事が出来ない状態であり(小母さんは家庭持ちなので少くとも3トンは要る)、興譲館で働いて下さる事により赤字が出るような次第で、単にお願いしている仕事の面だけでなく色んな面で献身的な努力をして下さる小母さんに対して大変気の毒に思っている次第であります。戦前の寮生ば本部より燃料費の補助をもらっていた由ですが、願わくば有為会本部諾先輩の絶大たる御配慮を期待する次第であります。
 長々ととりとめもない言の葉を連ねてしまいましたが、最後に有為会の益々の発展と、東京、仙台寮興譲館諸兄の御健闘を遥か北の国からお祈りして筆をおきたいと思います。
(丸山記)
  札幌興譲館 札幌市北七條42目