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米沢有為会会誌復刊2号(昭和28年7月発行)
興譲館だより(昭和28年、1953年)

東京興譲館

 興譲館と云えば、戦火に見舞われて一時その名を消しはしたが、面目を新にしてから早や4星霜、すでに13人もの卒業生を送り出している。付近のパン屋の親父までが、彼氏のデッチ時代からの馴染な名だと懐しんでくれる。この辺り、戦火の臭い全く消えたとは未だに云えない。がしかし、4年前から比較しては表裏の違いでもある。かつて、「あな、麗わしの乙女かな」と思いきや、階段を降りての壕舎へと姿を消して行く光景も2、3には止まらなかったのだ。しかし今では、文化住宅の並びによって、窓辺に見えた新宿のネオンも一切遮られるまでになっている。天下一の盛場と自称するその新宿からものの20分のところ、省電の響、自動車のうなり、街のアナウンス、果ては人混みの音までがきかれる喧噪な世界、それでも我々の住家はとても不安だ。直ぐ後ろに長々と腹這っている馬鹿デカイ8本のドームもつい2、3ヶ月前までは人殺しの練習に耳をつんざくばかりの音を響かせていたのに、その後はピッタリ止んで、我々と相対してるブ厚い立看板「オフ・リミット」も、正に間が抜けた感じである。
 だだっ広い屋敷に、細長い一條の小兵舎、こんな表現をしたら一喝喰らいそうだが、そして辺りには雑草が幅を効かせ、ことに学生の居ない昼間などは、閑散としたとした寂しさと殺風景、それ以外には何ものもないのである。殺風景と云ば、逆に目の保養に役立つのは、秋空に浮ぶ富士の霊峰と、たまには通る可憐なメッチェン位なもの。しかし、北村館長お心づくしの樹木もようよう活を戻し、学生の奮闘による雑草退治の効果もあって、軒に並んだ6つの窓に電灯の灯りが輝く頃は、その灯に映えた縁がえも云われぬ美しさであり、思わず郷愁を覚え、懐かしさに打たれるのである。
 生活の中で最も楽興の時はと云えば、やはり夕の一時であろうか。大した珍味もないが、それでも"御飯"の一声に、何をさて置いてすっ飛んで来る。その昔、といっても3、4年前の頃、みじめな食生活は駅の階段を上る馬力をさえ十分に補給し得ない程度だったが、今ではイモのコッソリ焼きの必要もない。食後、「米新」の記事に古郷を語り合う者、終えた1日の課業を反省し合う者、或はジャズだクラッシクだと1台のラジオを奪い合う者、更に時事を論ずる者、楽しい一家団欒の光景でもある。
 1人の掛声は、新調のグローヴをつけて外へと飛び出させる。広い屋敷はこんな時に便利だ。子供達のいい遊び場でもある。オジチャンと呼ばれた学生は、"未だ若いんだぞ"と云わんばかりの渋い顔、ひげ面が苦笑する。子供達はすっかり友達ぶって、洗濯ゴッコだと云っては汚れた靴下をねだる女の子達もある。
 現在の舎生は14名だが、次の通りである。
<4年>
加藤 明彦 (日本医大) 宮内町
高橋 俊龍 (東京教大) 蚕桑村
松岸 吉晴 (東京医大) 小松町
井上  清 (早大理工) 荒砥町
木村 敬生 (東京農大) 山上村
<3年>
山下  豊 (明大政経) 米沢市 総代
手塚 隆治 (明大 商) 米沢市
<2年>
佐藤 勝歳 (明大 商) 米沢市外成島 会計
高橋 靖介 (明大 商) 大阪市
金子 利雄 (東京経大) 小松町
島津  宏 (早大 文) 吉島村 庶務
高橋  廣 (中大 法) 米沢市
藍谷 時夫 (日大 経) 米沢市
<1年>
川合 清夫 (日大短工) 宮内町

 この春5名の欠員に20人を越す希望者が殺到し、その選考には神経衰弱一歩手前という苦痛な経験も忘れない。しかし、ようやく今夏、増築の工事が始められる事となり、余程難関が緩和されるものと喜んでいる次第、それにつけても諸先輩の深い御理解と並々ならぬ御努力に対して深く衷心より感謝申し上げている次第です。
 興譲館として、1月15日は、新年会と成人式とを兼ねての御祝いをするのが定例になっているが、今年も例に従い北村、櫻井両正副館長をお迎えしてにぎやかに行われた。日頃オトナシイ学生たちも、酔ったとなると元気百倍、囁きから歌唱、更にわめきとまでなる。歌、唄、謠が息つく暇もなく出て来て、或は図体に似合わぬ感情家もあって、たまらなくなっては眼をはらす。
 2月吉日は卒業生送別コンパ、酔っての光景は常に変わらない。各大学の校歌、応援歌、あるいは米沢、長井各母校の校歌交歓に、木造の食堂はわれかえるのである。早すぎる送別だが、延々2か月にわたってしまう試験に禍いされて致し方のないこと、それでもお互い肩を叩き合っては将来を励まし合い何とか惜別の情を醸し出す。
 春逝いて新緑の候、4月29日は例年通り上杉神社遙拝式に当てられる。相田会長をお始めとした有為会幹部と共に北方に面して拍手を打ち、やがて御祝いの宴がくり広げられる。先輩諸名士の御説を承り、宴たけなわになって、先輩対学生の自然な交歓が各所に見受けられた。こうした和やかな会の中に、夕刻せまる頃有為会万歳を以って幕が閉じられたのであった。
 春秋各1回ハイキングには、我々の行事の1つである。多忙な中にも、こればかりはどうかして都合つけんものと努力する。無理して参加する各人、参加した後の「プラス、アルファー」を心得ているのだろう。去年は20時間足らずで、日本平、久能山、三保の松原までをかけずり廻り、又この5月には箱根越をも試みた。緑の蜜柑山をかけのぼり、茶畑をうねり、いちご柵では面々強引に並んでシャッターをきるというジャジャ馬連中だが、それだからこそ一気に山と海に遊ぼうというプランも平気で立つのだろう。歩くのがいやだとは云い乍ら、疲れ疲れてそれで満足し切って帰ってくる。雄大な箱根のスローブ、はらからの自然と共に、青春の歓びを高らかに唱い、ひたむきな情勢は、何物を克服して行く。歓喜、これだけは若人の特権に思う。
 我々は、決して安楽な生活のみを望んではいない。生きることの闘いに、約半数以上は敢然として挑みかかっている。夜11時を廻らぬと帰宅出来ないもの、しかし彼等は、苦を楽としてはその戦いを続けている。夜半過ぎまでの明かりも決して珍しいことではない。そして、お互いに呼びかけ合い握手し合って激励し合いたい衝動にたまらなくなるのだ。この頃、舎内の一部に身近な問題を研究討論し合おうというゼミナールが組織される。より良き学生であり、良き人間完成への意欲の結果だそうだ。成果を切に期待しているのである。
 学生にとって最も厄介な行事といえば東京支部の園遊会になろう。約1か月その準備に忙殺され、終って1週間は園遊会ボケだと云っては歎く。愛嬌もの扱いされる「餅」との取組も、慣れぬ仕事にとんでもなく消耗するのだ。団結あっての賜、あれだけの仕事を個々の14人にどうして出来よう。尊い魂の力なのだ。
 田舎言葉が大ピラに幅を効かすのは興譲館位なもの、そして我々は、ここを生活のオアシスだとも云う。我々のチームワークは、こんなところからこそ完全化されているのかも知れない。館に関する限り何事にも安心しきっているのだ。
 しかし我々は、反省の態度が必要とされなければならない。完全なチームワークは、それを間違った意味にとった場合逆に我々がマンネリズム化される危険も十分あるからだ。憩いの場所が決して自閉の場所にはなってはなるまい。依怙地な団結ならむしろない方がましだ。同質をのみ求めずして突飛をこそ歓迎すべきぢやなかろうか。進歩がなくして人間の取得はない。からを作ってはならない。外気に触れてその刺激に対抗して行くだけの気魂がほしい。郷土寮の欠陥はこのカラを作ってしまうことにあろう。相田会長に何時もきめつけられる「学生は気魂がない」の意味は、ここにも通ずるものがあるのではなかろうか。自覚が必要だ。我々は常に全体の中の個の育成を忘れてはなるまい。

 長々ととりとめもなくなったが最後に有為会の益々の発展を祈願し、又紙上を借りて、札幌、仙台両興譲館諸兄の御健闘を心から祈ってお便りに代えたいと思います。
(高橋記)


仙台興譲館

 今この稿を起こそうとして古い会誌をめぐって見る。そこにはあの終戦時の混迷の中にあってなお逞しい再建の努力を忘れぬ我等の諸先輩の労苦に感謝します。しかし今やその諸先輩もようやく卒業されてしまった、世の移りと共に幾度か先輩を送り後輩を迎え舎内は可成りの変貌を余儀なくされはしたものの美しい伝統は今もなお保持されておるという事をこれからお知らせする動静より信じて戴けるかと思います。
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 1日の講義から漸く解放され一足興譲館の門内に入るや、そこに我々は皆一様に我家以上の寛ぎを覚える。間もなく「飯だよ!」の合図に待ってましたとばかり続々と食堂に集まってくる。たちまちそこには団欒がくり広げられ逞しい食欲の競争が開始される。程なくして食卓も拂拭されば或者は食後の憩にとラヂオに耳を傾けまた或者は碁盤を挟むといった、いとも和やかな光景が現出するのも興譲館ならではと云えるかと思います。やがてこの食後の歓楽もすめば思い思いの勉強に長い夜の時間が費される。こうした恵まれた雰囲気の裡での規則的生活は春のハイキングと秋の芋煮会とで織りなされることにより尚一層愉快なものとなるわけです。
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 舎生一同打ち揃って蒲生海岸に遠足を行ったのは丁度昨27年の6月8日であった。6月ともなればみちのくの春もふけて、そろそろ入梅の季節を始まろうとする頃ですが幸い天候にも恵まれ、顔まで泥まみれとなって地引網の引場などして晩春の日永を心ゆくまで楽しんだのであった。
 かくてうつ然としたつゆも待望の夏休みに入ると大部分の舎生は帰省し舎内は全く火の消えた様な寂しさとなる。ただ米沢より上仙された先生方のお宿に役立つことになってわずかに米沢寮の面目も保たれるといった恰好でした。夏休みも終って日焼した面々が続々と出揃った9月10日に委員改選が行われ10月2日の改選コンパをすまし一切の事務が新委員に引継がれることになった。改選が例年になく早く行われたのは昨年の就職戦線が異常に早く始まったため先輩の就職に少しでも支障が起こってはならぬと考えたからであった。
 年の瀬の離散コンパ、年明けて正月の餅コンパと楽しくもあるが慌しいうちに2月8日舎内の卒業生送別コンパが催された。時期的にはいささか早過ぎた感があったが、種々の都合で止むを得なかった。幾年かを寝食を共にし、苦楽を分ち合った7名の先輩よ無病息災なれと万感こみ上るうちに盃を汲み交わす。惜別の情は盡きぬままに3月1日の支部送別会に持ちこされ、三原支部長初め来賓の祝辞あり蛍の光斉唱の裡に閉会となる。
 大量7名の卒業生を送って一時寥々となった舎内も4月1日米沢に於て新入舎生選考会を行った結果20名近い希望者中より7名の新入生を迎えることになって文字通り面目を一新することになった。毎年のことながらこの期になって我々の痛感することは興譲館増築の急務なることで、これが実現される日の一日の早からんことを念ずるのみです。
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 4月29日には恒例の遙拝式並びに支部総会が挙行され、三原支部長以下諸会員のご列席を得たのでありますが、その節の役員改選に当り三原支部長の後任に大木貞助氏を満場一致可決、その他の役員は追て決定されることになりました。ここに三原支部長、関理事長の当館再建の以前4年有余に亘る多大の御尽力に舎生一同心から感謝致すと共に今後も倍旧のご支援を乞う次第であります(願)。
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 なお最後に炊事の小母さんの件でありますが昨年8月三松さんが急病で入院されて以来高橋さんにお願いしておりましたところ本年2月末一身上の都合によりやめられることになって、又も"食"の危機にさらされたのでしたが辛い現在の田代さんを迎えることが出来ました。仲々しっかりした小母さんで舎生一同の信望を集めております。
 以上とりとめのない興譲館便りとはなりましたがこの様な恵まれた環境の下に生活出来ますことはひとえに有為会員の皆様のお蔭であることを感謝致しまして筆を置くことに致します。
(高山記)

札幌興譲館

 半年を冬に閉じ込められた札幌にも急速に夏が訪れた。古びた古風をもつ札幌興譲館の周辺にも濃い緑が風にそよぎそれに囲まれたローンの上では珍らしく寮生が露天麻雀に興じている。チームワークの取れた一場面かも知れません。他の寮との交歓試合にもオールスタッフでぶつかって行く。誠に意気軒昂、現在寮生は次の通りである。 
 
袖山 智也  (北大法 4) 米沢市大町 委員長
細谷 敏巳  (北大水産 2) 東村山郡出羽村 会計
仁木 和三郎 (北大医 4) 北海道北見市
今井 和夫  (北大医 4) 米沢市福田町
今野 辰次  (北大農 3) 東置賜郡小松町
山下 和夫  (北大文 3) 山形市四日町
丸山 義皓  (北大農 3) 東村山郡津山村
近野  功  (北大教養 2) 米澤市免許町
三浦  隆  (北大教養 2) 南村山郡本庄村
瀧   襄  (北大水産 2) 北海道旭川市
西塔 邦夫  (北大水産 2) 東村山郡豊田村
大挟 康治  (小樽商大 1) 米澤市中矢来町
山口  尚  (北大教養 1) 南村山郡上山町

 戦後一時郷土出身者が減少したが、またまた落付きを見せ現寮生もほとんどが郷土出身者ないしはその縁故者であり、殊に今年の4月あたりは、申込者が多く、定員10名の所、更に7月末には水産学部の3名が函館に移行する為、丁度定員に戻るわけである。古い人が殆ど退寮し寮の雰囲気は若さに満ちている。
 北大が近いので、8時に起床してもギリギリ間に合うので、寮生は、夜おそく迄その灯を消さない。猛勉強する者、甲論乙騒する者、設計図を引く者等まちまちであるが、最後の学生生活を、それぞれの人生観を以て飾ろうとしているのだ。
 思うに現代程私たちにとって"生きる"と云う事が切実に感じられる時期はない。様々な悩みを持ちつつも、何とかして自己を失うまいと真けんな態度で学んで居る。或は札幌の持つ自然の美しさが、幾らかでも私達の悩みを救ってくれるかも知れない。
 札幌の物価指数の高いことは、有名であるが、そのため寮生の経済生活は直接間接に物価高に支配されて、ギリギリそのものである。互にアルバイトを求めて頑張っている。勉強をネグらぬ様に気を遣いながら。
 しかしながら、新入生歓迎、卒業生送別等のコンパには、ここを限りとばかり気焔を上げるのみである。ガマの油などのかくし芸が、お国なまりで飛び出す。昨夜も水産学部の学生のため送別コンパを開いたが快く酔い、仙台寮、会津寮、秋田寮等へ返礼ストームに出かけた。褌一つでスキーを片手に、ガタンドシンとコチャエ節を歌いまくって来た。思い切り。
 晴れた日曜ともなれば、北大附属植物園に憩い、中島公園の池の面を過ぎる涼風に身を任せ、またはポプラ並木の夕の散策に、彼方に見ゆる手稲連山にたなびく五色の雲に札幌の自然美を思い切りにたん能する。振り返れば農学部の渋い建物が中世の古城を偲ばせる。街を歩けばアカシアの香りがプンと匂う。札幌の自然は美しい。しかし一旦現実に戻ると、ゲルトなきを嘆ずるのみ。
 ガッチリしていた寮も齢既に27を数えるころともなれば、壁は黒ずみ、畳は破れて、腐り風が吹けば屋根の破れトタンが廃屋の譜を奏で、雨が降れば、すが漏りのため壁を崩し、各部屋にも時ならぬ黒い雨が降って貴重な本を台無にする。なんとかせねば、と心をを痛めていたが、只々資力なきを嘆ずるのみであった。
 荒れ果てた寮からをこれからの後輩をこれからの後輩や支部の人々のために良き場所として維持せねばならぬと、大橋支部長、上村館長らの力強い応援を得て、補修費申請運動を起こしたのは春まだ半ばの頃であった。本部に懇請するための資料の編集が各寮生の分担作業で始められた。これまで本部との連携がうすかった為、もしや却下されるのではないかとの危惧の下に、頑張った。資料が纏って直ちに寮の破れ果てた集会室で評議委員会を開催満場一致で寮舎補修の承認が行われた。それから数旬、申請が一部受理され、費用の見通しがついた旨、上村館長から報告があった時には、さすがにホッとすると共に、その嬉しさ、言語に盡きぬものであった。有為会諸賢の暖き御理解とご配慮に対し、寮生一同深く感謝すると共に、有為会の発展のために一層の努力をする事を心に銘じたのである。そしてまた寮生一同有意義な学生生活を送る事を誓ったのである。
 ただ、同時に申請した自治部会計への補助金が全面的に削られた事は何としても痛かった。しかし今回は補助費の支出が大きかった為、止むを得なかったものと思っている。
 寮は自治制で、重要事項についてのみ、館長の承認を受けて居り、委員長と会計委員の2人が、6か月の任期で寮務に当たっている。委員は互選であるが、4~9月の期間に当ると比較的楽なのだが、10~3月の期間に委員になった者はその労苦たるや言葉の外である。何故かと云うに、これは北海道の学生共通の悩みだが、暖房用石炭代及び炊事用石炭代の負担が大きく(冬が長い為)、乏しい学生の懐工合では、如何とも為し難く従って寮費の滞納が嵩み、会計は火の車で、委員は金の工面に勉強も手につかぬ程である。また従ってオバさんの室に供する石炭さえも買うこと能わず、寒い寒い冬に耐えかねて、逃げ出す始末である。今後に残された大きな問題である。有為会諸賢の絶大なるご配慮を切に乞う次第である。しかれども私達は、下宿に悩む他の学友を見る時に、相対的にははるかに恵まれていると云う事を痛感するのである。札幌の下宿難は有名でありと見つけたにもせよ、6畳間に2人、8畳間に3人押し込められ、1人につき5千円(冬は石炭代として増額)も払わねばならぬのだ。1人1室の場合にはやや高目だが殆んど下宿である。私達の寮は、1ケ月の寮費として約3千6百円から4千円近くを要するが1人1室であるだけに、ゆとりある生活ができるのである。車の音に悩まされる以外は閑寂な場所である。最後には私達はこの恵まれた所で、正しく自己を把握し、厚き友情の下に、勇気と協力とを以てこの困難な時代を生き抜く事を誓い、同時に全国の有為会諸賢のご健勝をお祈りして、執筆を擱く次第である。
(委員長 袖山記)