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米沢有為会会誌復刊1号(昭和27年7月発行)
興譲館だより(昭和27年、1952年)

東京興譲館

 かつて諸先輩が吟遊した射撃場際の上提には立入禁止の札がいかめしく立てられ、テニスコートであり、また戦争中は防火用水池濠舎であった処には、身丈程の雑草が1面に蔽って居た。夕空に富士が見通される程の焼跡に、濠舎混じりのバラックが点在し、ともすれば、いまだに戦災の匂いもし兼ねない西大久保の当地に、昭和20年3月13、4日の罹災以来、4年ぶりで再建された東京興譲館の開館式が行われたのは、24年10月2日、篠田氏宅、遠藤氏宅更に永井氏宅と、再三居を変えながら、遂に一時解散の己むなきに至った時から数えても、3年を経過していたのである。
 あの当時、あるいは法外な値の下宿に、或いはトタン葺のバラックの親戚にと、それぞれに再開の日近きを念じつつ別れで行きながら、切迫した日々の生活に追われ、学校を異にする境遇にあっては、仙台興譲館が既に、学生の手で再建準備が進められて居る事を聞いても、結局焦るばかりで何もできなかった。
 しかし、こんな風に、学生の生活に追われている間、毎月の理事会では1日も早く住む処を、と云う諸先輩の御好意が、当時の東京支部長加勢先生のお力になる、阿佐ヶ谷の住宅購入提案をはじめとして、不断に続けられつつあったことは全くありがたかった。
 間もなくして、今後益々増加するであろう入寮希望者に備え、却って当地に再建しようと云い論が大きくなり、会長、副会長始め、諸先輩、郷土の方々の、並々ならぬご尽力によって、希望に満ちた再建工事が開始されたのは24年5月のことであった。
9月末北村館長の選考を受け、先ず入舎を許可される5名の学生は、電灯線や畳の入るのを待ち兼ねて、大工等の引き去る前に入舎する程の有様だった。
 そして10月2日、木の香りも新しい中に、相田会長を始め、多数の先輩のご参集の下に、開館式が行われた。備え付けの書棚、食堂、風呂場等々、すべて学生本位に設計されたその調度は学生生活には絶好のものであり、私たちの向学心を刺激せずにはおかないのである。
 開館後の寮は益々入舎希望者の増える一方だった。10名の舎生は、あるいは炊事に、掃除にと、舎内の設備品の充実等々、仕事をしながら、1日2食、しかも粥食をすすりながら1ヵ月余りを送ったが、11月末には、寮母を迎えるようになり、ようやく落ち着いた生活をすることができるようになった。その後の入社希望者の増加に伴い、郷土人のための客間も開放したのは、それから間もなくの事であった。
 寮内は総代及び委員の執行機関によって統べられ、重要な問題は館長の御助言ないし承認によって、また月1回の定例舎生会によって、すべて民主的に処理され、私たちは絶えず理想的寄宿舎生活の目的達成のために努力を続けているのである。
 終戦後6年間を経過した今日では、あの敗戦の直後に見られた打ち砕かれた絶望的な荒んだ思想も、生活態度も、戦災地の復興とともに次第に健全なものへと復興の一途をたどった。そしてここ西大久保の興譲館も、明るい、希望に満ちた学生たちの楽しい寮として、我々の心を励ましました。故郷を遠く離れても常にあたかも郷土に居るごとく錯覚さえする、心の安らぎを我々に与えてくれるのだ。
 4月29日、天皇誕生日と上杉神社の春の大祭にちなんでの、恒例の有為会評議員が開かれた。そして席上有為会の現状報告、 今後の会の発展のために、真摯なる多くの意見が、交換された。理事会終了後、お祝いの酒が汲まれた。有為会の発展のために、高らかな万歳唱が春の空に力強くこだました。評議員の方々や諸先輩の方々とお互い盃を汲み交わし、学生たちは日ごろのこれら先輩諸氏の努力に感謝し、共に会の発展のために努力することを心に銘したのでだった。
 学生間のチームワークはすばらしいものだ。そしてそれは、春のハイキングや、野球の試合等により力強いものになるのだ。春のハイキングは相模湖へ行った。浩然の気は養われ、親睦の情はいやが上に昂まる。 波静かな湖上にボートを浮かべ。歌を歌えばそれは高らかな合唱になった。山水の気を満喫して別れを告げる時、みんなはすっかり疲れていたが、さらに大きな親しみを抱いて満足にに談笑していた。
 また他の学僚への野球の挑戦試合も我々の闘志と団結の発露である。同じ西大久保4丁目、射撃上を隔てて九州佐賀の学生寮久敬社がある。ここは60人近い大世帯であるが、小粒たりとも興譲館の一騎当千の強者である。熱戦七合、互いにお国訛りを誇らしげに応援戦を取り交わした。こんな野球試合にも、我々は協力の精神と交際精神が得られるのだ。
 現在舎生は次の通りである
 
加藤 明彦  (日本医大) 宮内町 総代
井上 清   (早大理工) 荒砥町 会計
白石 善次郎 (早大文) 米沢市桐町 庶務
近藤 鐵雄  (一橋大) 米沢市南堀端町
高橋 俊龍  (東教大教) 蚕桑村
中村 祐吉  (東薬大) 米沢粡町
松岸 吉晴  (東京医大) 小松町
山下 豊   (明治大政経) 米沢市越後番匠町
星野 啓一  (早大法) 米沢市大町
木村 敬生  (東京農大) 山上村
武蔵 哲   (日大芸術) 米沢市北袋町
原  弘一  (一橋大) 米沢東寺町
 
 舎生は、友情を信じて、諸先輩のご鞭撻を期待して勉学に励んでいる。時には談笑の声が聞こえる。親友交歓の喜びである。夜遅くまで電燈が灯っている。猛勉の灯りである。この困難な時代を生きる為には、勇気と協力とが要る。舎生はこれに恵まれている。相互に身近かに交通し、意見の交換が、充分に可能だからである。

仙台興譲館

 「目に青葉山ほととぎす初鰹」
 仙台興譲館の裏庭にもしっとり濡れた木々の新緑が輝き、朝の私達の食卓には自作の 豌豆のみそ汁、夕食には 鰹の照焼一切も出るというよい気候になりました。全国有為会皆様には今日この頃如何お暮しですか、それぞれの分野で元気に活躍のことと思います。 
 仙台における学生生活は、成程、 東京のそれと比べ経済的負担が軽いかも知れませんが 、変動の激しい時代にあっては 矢張り容易なものではありません。仙台興譲館の学生も多かれ少なかれ、親の痩せ細ったスネを噛じるに堪えなくなったという殊勝な気持ちからか、トリンケン・ラウヘン・ 映画そしてタンツェン等の小遣い稼ぎのためか、あるいはまた25時の不安における何かせずに入れないといった強迫観念に駆られてか、選挙運動員・家庭教師・夜警・会社の臨時雇・血液売りのバイトをやり、この時代の学生らしく生きております。ただ惜しむらくは東京と比べて仙台にはバイトの種類が少ないということです。
 思うに現代ほど「生きてゆく」ということがあらゆる人間にとって、殊に私達にとって痛切に感じられる時期はないのではないでしょうか。敗戦による虚脱感、既住のすべての価値の否定、転倒、そして今は 赤い色と黄金色の2つの世界の潮流にその岸をひたひたと洗われ押し流れていく小口の不安とまたしてもの価値の再否定と再転倒。 私達はかかる混然たる時代に悩みの多い青年期を迎えることになったのです。これから諸問題をめぐって館生達は 麻雀、トランプで夜ふかしする以上の熱心さをもって甲論乙駁、夜のふけるのも忘れ口角砲を飛ばす議論を展開します。そしてやがては資本主義という社会の大きなメカニズムに惰性的におり込まれることを悲しくも悟るのです。しかしこれが仙台興譲館における学生の生活の全部ではありません。煌々たるスタンドの下で辞書片手に文学・経済・法学の原書をひもどき、顕微鏡で医学や理学の標本をのぞき、むづかしい機械の設計図を引いている姿も2時3時頃までみられます。興譲館の生活はこれだけではありません。春は仙台名蹟の1つである国見峠にピクニックに、風光明媚な野蒜海岸へ潮干狩に、夏は興譲館のすぐ目の前を流れ仙台の多摩川とうたわれる廣瀬川で「水およぎ」をし、ボートを浮かべ、秋は秋でダンス・パーティ、卓球大会を催し、冬はまた冬で娯楽室に集り、電蓄でレコードコンサートを、あるいは面白山にスキーに等のリクリエーションを行い、浩然の気を養っております。ここに特筆すべきは興譲館軟式野球チームの健斗ぶりでしょう。館生一同がゲルトを出しあって野球用具一式を買い求め、猛練習の功あって東北大新聞部、特別調達庁その他大学の寮との数回にわたる試合の度毎にAづきで快勝、向かう所敵なしといった迷ティーム?です。
 さて仙台興譲館の定例行事たる4月の上杉神社遙拝式、10月の芋煮会、新年宴会、3月の卒業生歓送会には三原支部長、高橋東北大学長、黒金国税局々長を始め在仙の有為会々員、学生が興譲館に参集、支部長その他の方々の有意義なお話の後に、一同大いに飲みかつ喰い、大いにダベリ、大いに綺麗なお嬢さんの踊りに、有志の方々の余興にうつつをぬかし、一日を楽しく過ごすのが常であります。誠に興譲館の生活は「充実せる生活」の連続であり、いつまでも記憶にとどまることでありましょう。尚この機会に興譲館のためにいつも誠意をもって尽くして下さる三原支部長の在仙の有為会の方々に改めて熱くお礼申し上げます。
 仙台興譲館は戦災のため半分が縮少され、館生18名オバサン家族を入れて20名の小人数ですが、全く相互に隔意なく運営はスムーズに進み、大学の他の寮にみられるようなアパート的存在では決してありません。それ故に1市3郡の出身学生がひきもやらず入館申込をしてくるのも、館費が安くてエッセンがよいとか、週2回風呂がわくとか、オバサンが親切で優しいということの外に、この仙台興譲館のもつ郷土色タップリのところが彼等のノスタルジャを誘うのでありましょうか。しかし何せ現在のこの小さな建物では收容人員に制限されているため、いちいち断るのは同じ学生だけに苦しいものであります。本当に一刻も早く建増し願えたら幸せに思います・・・。どうぞ御來仙の折は是非角五郎丁の興譲館にお立寄り下さい。客布団もございますし、御相手になる囲碁の天狗連も沢山おります。
 最後に全国有為会の皆様のご健康とご活躍とをお祈申上げます(金子)

札幌興譲館

 札幌興譲館は農学部をはなれること1丁余りの閑静な地に立っています。確か創立以来26年を経ていますが、この頃では建物も古びて正に興譲館と呼ぶにふさわしい風格が出てきた様です。寮の周りも2丁有余の歳を経た木々がもはや丈余にのび草と3畝歩ばかりの畠を除いては生えるにまかせてますが、我寮の草木は主人の心がわかると見えて、いたる所にちょうりょうばっこしてます。しかしながら5月ともなれば北の国ならでは見られない軟い緑の影を滴らせて、古びた建物とともに沈んだ落着きを感じさせます。寮生活の苦しい社会生活も苦しいながも安定を示したせいか、生活を懸念しながらの毎日ではありますが、落着を取り戻した様な感じです。現在まで当館の送りました先輩は60数名になっています。もちろん農、工、医、理がほとんど全部で、文科はわずか1名と云う状態ですが、終戦後にわかに作られた法文でありますから当然の結果です。この辺にも北海道の性格がうかがわれますが、今は郷土からも雪と広野のこの国に新しい道を求めて、文科系にもどしどし来られることを寮として希んでいます。
 興譲館出身者も戦前は相当数来ていた様ですが、戦後は生活の関係でしょう、にわかにさびれ昨年一昨年あたりではわずかに1人、米沢に関係深き者数名で、寮の経営上寮生の知人友人等を入れて寮を維持して来たのですが、現在に於ても興譲館出身はわずか1人と云うさびしい状態です。しかし米沢近郊に籍を有するものが3人、他の寮生は米沢出身者の子弟で、どうやら興譲館の看板には背かない様です。一時は以上の如く米沢出身がいたって少なくその上住宅難がからみあった故か、有為会の人からも館の性格を云々され、存続が無意味の如く思われたこともありましたが、我々は社会生活さえ安定すれば、再び郷土から笈を背負ってくるものと思います。24年の前回の会報以後の寮の活動を御伝えしますが、同年の秋恒例の園遊会も開きました。昨年も5月市内円山公園で花見の園遊会を催しました。札幌のこの頃はまだ肌寒く、それに丁度この日は折悪くて曇天で、参会者も少なかったのですが、それでも40人近くの人々が参集せられ盛会でした。
 寮生の状態は前述の如くですが、昨年今年と古い人がほとんど出て、陣容一新といった形です。現在員は10名、丁度定員です。良く学ぶもあり、学ばざるもありですが、各自、己が道を真面目にみつめ、毎日を送っています。外に郷土出身のサラリーマンが一人入っています。札幌神社の御祭りも近づきなにかなければと腕を撫していますが、資力なきを歎ずるのみです。北海道の学生の共通な悩みは冬の暖房用石炭で、かつかつの生活を送っている寮生ではこの一般的な悩みからのがれる術もないですが、しかしかかる生活の不安の中にも勉学これ努めている事も一般学生と同じですから、大方の御安心を乞う次第。寮も齢既に26を数え、その間修繕もなされないせいか壁は黒ずみ、畳は破れ、風が吹けば屋根のトタンが廃屋の賦を奏で、雨が降れば雨もりが壁を崩すと云った状態です。今の中何とかしない事にはと館長にも相談し、有為会人々にも御願いしたのですが、この頃の世相ではそういった余裕がないのか、何ら具体的な進展を見せず、致方なく崩れるにまかせています。しかしこのまま放置出来ずさりとて資力なき寮生では何とも仕方なく、有為会の人々と相談して何とか根本的な維持方針をぜひ立てたいと思っています。有為会の本部から遠くはなれ、郷土出身の寮生も少く、その有為会員も多いとは云はれない当地では、館の存続維持等の解決しなければならない重要な問題が多く、それだけに本部のはっきりした態度が望ましいのです。
(寮生総代)