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米沢有為会会誌復刊首号(昭和24年7月発行)
興譲館だより(昭和24年、1949年)

東京興譲館

1.昭和20年4月13日の空襲で東京興譲館焼失

 淀橋区元陸軍射撃場側の2階建の寮からは毎朝30名近くの学生がそれぞれの学校へとコ ンクリートの塀の中から出掛けて行った。それが有為会寄宿舎東京興譲館であった。省線電 車の騒音からも程遠く、かしましい自動車道路から少し入った小路は人影も疎に学生生活に は絶好の環境にあった。大部分有為会有志の寄贈による心の糧が、食堂の幅3間4段になっ て居る陳列棚に1寸の隙も無くぎっしりと背をそろえ、思い思いにその中から1冊2冊と借 り出しては読みふけった。小春日和の日曜の午後にはテニスコートではポーンポーンと戸山 ヶ原の空にボールのラケットに弾かえる音が和やかに溶け込んで行き時折ドッと歓声がこだ ました。また夜長の秋の深更1時過ぎ迄燈火のもれて居る部屋も少くなかった。併し昭和18 年、19年と戦争が苛烈の度を加えるに従い出陣学徒〇〇君、通年動員〇〇君の為にと大書 した旗の下興譲館に於いても次々と時ならぬ送別会が開かれた。間も無くテニスコートの半 分は都の防火用水プールと姿を変え又残りの半分は防空壕、野菜畠に衣装替した。
 20年の初、針生館長は一身上の事情に依り館長の職を辞され、舎生は東京高師の島津先 生を新館長に迎えた。新館長の下興譲館の気風も一変し、漸く苛烈の度を加えた空襲の、動 員の、勤労奉仕の間隙を良く捉えて舎生は学理の探求に躍動して居た。
 併し其の年の新学期を迎えた早々の4月13日の夜戦災は遂に我々の頭上に覆って来た。 常時興譲館にいた舎生は十数名、相にく其の日は館長は帰省中にて不在であった。その指揮 不統一の中に有りながらも舎生一同は興譲館護持の為ポンプをつく者、荷物を運び出す者、 人にては不可能と思えるほど消火に尽力したが強風にあおられて一面から押し寄せる猛火に 隣家が包まれた時絶対的威力を持つ或る筋の命令に依って一同退避を命ぜられ、振り返り振 り返り絶えなき未練の瞳を猛火に包まれている興譲館の姿にそそぎ乍ら劫火の中を縫いつつ 安全地帯へと避難した。翌朝安全地帯からの帰路には広漠たる焼野原の中に興譲館のみがポ ツンと残って居る様な錯覚の自己慰安を等しく胸に抱いて昨夜の敢闘に疲れた身体を興譲館 へと運んだ。そこはまだプスプスと煙を立てて昨夜の有様をまざまざと物語って居た。各自 の部室だったと思われるコンクリート土台の上に興譲館を焼失したと云う努力の足らざる自 責の念と興譲館を失った寄る辺ない哀愁とに意識を失った人間の様に呆然とたたずんで互に 一語も発しなかった。

2.終戦直後

 西大久保の興譲館が戦災に逢ってから、館長初め舎生諸君の尽力に依り、殆ど壊滅の危機 に瀕しながらも良く空襲下の帝都に踏み止って、世田谷上馬の遠藤達氏の宅を借り受ける事 になった。不自由ながらも戦時生活が再現したと思う間も無く戦争は悲しむべき結果に終わ った。
 学生は再び懐かしの門をくぐり興譲館も元の明朗さを取戻した。 20年11月大小10室の興譲館新生第1歩たる委員改選を行い、館長を中心に舎生17名は今 後の興譲館発展への希望を語り合った。この間、舎生は勉学の余暇をさき、リックを背負い 、リヤカーを引いて芋の買い出しをやり、また月1回位帰省して米を運び苦しい食生活と戦 って来た。
 晩秋の1日、有為会理事会が当興譲館で開かれ、理事諸氏に興譲館復興等に付いて御話を うかがい、舎生一同希望に満ちて勉学にいそしんで来た。かかる中に終戦最初の正月も楽し く送り、敗戦当時の絶望状態より漸く起ち上って学生の本分に努力しつつ有った舎生の頭上 に、突然意外な報せが舞込んで来た。それは館長、舎生の力によって戦災から守り、漸く今 日まで盛り建てて来た興譲館の立退きを要求されたので有る。
 現在の住宅難に下宿の当も無く、一同協力して寮を探したが、種々の障害により実現しな い内、暑中休暇となり帰省する事となった。
 在米中も舎生会を開いたり、有為会の諸先輩に御願いしたりして、種々手をつくしたが無 効に終り休みも終り上京して見ると興譲館は既に他人が入って居り、舎生の荷物は1室に積 上げられ寝る場所も無く、玄関室の3畳に5人も寝る様な状態で有った。この時、以前より 色々と御世話下された有為会員の永井忠兵衛氏が米沢に移転せられる事になり、御宅を御貸 し下さる事になった。やはり世田谷上馬の一角で8室有り、近くに緑に覆われた丘が見え学 生寮としては絶好の場所で有った。
 10月1日移転を終り、室不足のため館長は他に移られる事となり、館の運営は有為会の 指示の下、舎生の自治寮として進むこととなった。総代を中心に庶務、会計委員を置き、こ れに3度、興譲館の発足を見るに至ったので有る。

3.世田谷上馬時代

 舎生はやっと腰を落着けて勉強出来る様になった事を感謝し、和気に満ちて元気良く各自 の学校へ通った。前の寮母は止し未だ後釜が見つからなかったので、なおもずっと心掛け見 つかる迄自炊をやる事に成り、大体部屋毎にバタバタ団扇を扇ぎながら雨降の日なんかは傘 をさして燃えない薪に涙を流しながらも、とにかく寮が求まった事を幸とし翌 22年の4月 迄手際の悪い不自由な自炊生活を続けた。
 永井氏宅に移転して間もなく良く晴れた日曜の午から有為会理事の方々が新興譲館に御参 集なされ、これからの方針や生活や館内充実のためのお話し合いをして下され、舎生一同益 々心強くし館の繁栄を希った。次の年正月には赤湯に一同集って飲み交わしこれからの興譲 館生活に益々明るさを期待し今年も一緒に勉学する事を語り愉快に雪の中で1日を過した。
 4月に前の興譲館の隣組長安部さんの御世話で世帯持ちの寮母を求めこれより内食となり 、足りない所は各自補い食事の方は先ず保障され舎生の負担が軽くなりなお一層落ちついて 勉学出来る様になり学生寮の面目を得た。こうしている中に夏休みとなり8月に舎生の最大 の恐怖、館の明渡しをまたも要求され一同がっかりし今度こそ存続は困難と考え下宿探しに 頭を悩ます事となった。2学期に上京し大体が所に行く他所が無くて集まっている現在の舎生 は、あらゆる方面に手を張って下宿を求めたが世相の通りチョッとは見つからなかった。も しあっても新円成金でもなければ出せそうもない権利金を要求されたり負担し得ない程の条 件つきだったりして現在行先の確定している者2、3人の他大部分は努力をしつつも求めら れず現在に至っている。なお寮母からも行先を求められても自分一人も始末も出来ないで、 まして学生の力では御世話も出来ず、もし有為会の方々にお心当りでもと考え御願いしてみ る積りである。食糧難、生活難、停電、住宅難、この現実と闘いながら舎生一同、熱と力で 勉強しつつも木枯し吹く今日敗戦、戦争の犠牲者という事をひしひしと身に迫り感じて居る。

仙台興譲館

(雑誌中絶後最近までの寄宿舎動静)
 「有為会雑誌中絶後の仙台興譲館の動静について」請われるままに小生が書くことにした 。書くと言っても自分と館との関係は余りに浅過ぎるため御期待に副いうるかどうか判らな い。自分が館に世話になった始めは昭和16年の自分の浪人時代である。
 その頃の館長は氏家富雄先生。支部長は佐藤伸定閣下であった。
 この年の秋、始めて米が配給制度となり明日の米に窮して先輩の家に頂きに行ったことを 思い出す。年暮れ年改まり喧騒の中に小生は山形に行き19年秋再び館にかえって来た。
 その間、館は大きく変動して居た。氏家館長は朝鮮の中学に御栄転になられ伊藤政治先生 が館長になられて居た。テニスコートは畠に変わって居た。戦争は下り坂になり、道行く人 はすれ違う人に目が止まらなくなって居た。
 20年の1月伊藤先生が旭川に御栄転、代りに九里尚知先生が館長になられた。桜咲く頃 、舎生はねむい眼をこすりながら防空壕の改造に畠耕しに苦しみの中に楽しみを見出してい た。夜毎にくる警報の中にも……。7月10日、仙台大空襲の際、館は焼かれてしまった。 館焼失後、約2週間舎生は舎の近隣4軒に分散生活をした。間もなく舎の西隣の高根さんの 家を借りることにした。
 6畳4間、8畳2間の家だったが、20人の舎生では勉強が出来なかった。
 終戦を知ったのもこの家でである。舎生はただ訳もなく泣き入った。
 苦しい忙しい生活の中に再建へと努力の結果、10月始めに長町に寮を見付けた。始めは 全部借りるつもりだったがいざこざの末、寮の2階(部室数14)のみ借り食事は寮管理人 に任せることになってしまった。10月6日移転の時は喜びに顔をほころばせ2里あまりの 道を大八車で疲れを知らず荷物を運んだ。
 しかし学校に遠いこと、工場地帯の真中のこと、他人任かせの炊事で自由の利かぬ冷い食 生活、1階と2階とに分けたとは言え他人との同宿、これらは舎生の理想を奪い取り次第に 幻滅の淵に押しやった。それに寮管理人の強要もあって21年3月末涙も出ない離散コンパ に館を閉じ舎生はバラバラになってしまった。
バラバラになって舎生の逢う毎に再建を語り再建を夢見た。偶々、今年の6月、当興譲館 敷地の売買問題を耳にして驚いた。事情を聞けばもっともと思ったが協議の結果、破談とし て貰った。
 その後、あの敷地を売る位なら他所に小さくとも家を買おうと話していた所、「あの700 坪の中、200坪、譲って下さるならばその金で50坪の寮を2ヶ月位で建ててあげましょう」 と言う人が現れた。口重い人の暖い言葉であった。
 これを逃してはと思って支部長さんを通じて東京の本部に便りを出した。気の早い舎生は 下宿をはらった人もあった。しかし返事が来ない。理由の如何を問わず無視された事だけは 違いない。自然その話は解消してしまった。
 この秋、舎生が集って国見峠に芋煮会をやった。自分たちのいる間になんとかしたいと言 う。話のある度に市役所に行き県庁に行き案を樹てて見る。相変わらず東京からはなんのこ ともない。返事位よこしても良さそうにと意味のない腹を立てて居る。館の跡は今、館長さ んの畠になって居る。下宿が近い関係から時々行って御手製のものを御馳走になる「館長さ んは務まらないが百姓さんは務まりそうですね」。こんな悪口も言って来る。
 舎生は1日も早く館が再建され再び相集る日の来ることを心から念願して居る。 (追記)仙台興譲館のことを知っている人は、誰でも館を思い出す度に炊事の小母さん・高 橋トクさんを思い出す。小柄な堅気の小母さんだった。その小母さんはこの4月亡くなられ ました。悲しみと追憶とを共にしたいと思いここに謹んでお知らせ致します。


札幌興譲館

 会誌再刊の御尽力を心より感謝致します。
 当札幌興譲館では雑誌発行当時の先輩は皆卒業され、現在のところ新人ばかりの状態で従 って寄宿舎の動静も判然としているのは最近の事のみです。
 戦争中札幌は幸いに空襲もうけずまた建物疎開にもあやうく厄をのがれ、東京、仙台の興 譲館焼失の現在、札幌興譲館のみ昔のままに残っているわけです。戦争以来交通不便、食糧 不足等種々就学不便の為米沢より来る学生が少なく寮生の知人、友人等を入れてどうやら人 員を整え寮を維持して来た様な状態です。
 昭和21年4月以降の寮生の活動をかいつまんで申上げますと、先づ21年には最初の秋季 園遊会を開催すべく先輩上村重信氏、星勝之助氏等の下、寮生一同着々その準備を進めたの ですが種々の条件整わず遺憾ながら開催するには至りませんでした。それ以来これ等の催物 の計画も社会の混乱にまぎれて立消えの形になってまいりましたが、今秋11月3日米沢人有 志の方々の御協力を得まして当興譲館に於いて米沢人懇親会を開催しました。幸い40名近 くの方々の御出席を得、終戦以来初めて和気あいあい裡に故郷の思い出話にふけりました。
 次に学生の状態ですが21年4月当時上村氏以下9名の学生が居り終戦当時の混乱の裡に 学生生活を送って居りました。今年4月に興譲館中学出身今井和夫君(北大予科1年)を迎 え清新の気を振起しています。今秋は卒業生多く星氏、佐藤氏、栗田氏兄弟の4人を送り一 時閑散たるものがありましたが米沢出身の井上和男(北大予科1年)、富岡由夫(工学部1 年)を迎え現在7人の人員で和気あいあい寮生活を送っています。
 今年は石炭の配給が少なく炊事に使うのみで暖房用石炭皆無のため寮生一同寒さにふるえ ています。それでも北海道名産の南瓜に顔を黄色にして研学に邁進しています。いずこも同 じでしょうが生活費の昂騰に学生の生活も容易ではありません。1日も早く自由に勉強の出 来る時代になるよう切望してやみません。なお最後に興譲館中学からもっともっと多数の米 沢健児が北大に入学される様寮生一同心よりお願いします。エルムの学園に絶えて久しい米 沢弁のお国自慢が飛び出す日を首を長くして待っています。では粗略ですが最近の寄宿舎の 動静についてのお知らせ、このへんで擱筆致します。
(11月11日札幌興譲館委員 平賀雅夫 記)