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米沢有為会会誌創立120周年記念号(平成21年12月)
興譲館寄宿舎100年の歩み

東京興譲館

1.有為会の誕生
 「在京の同郷人に呼びかけて親睦団体を作ろう」との伊東忠太の提案で、内村達次郎、小田切(鳥山)南寿次郎、長谷部源治郎、宮島幹之助、伊東の弟三雄蔵の5人の合意を得て、在京同郷の先輩後輩に広く呼びかける準備が進められた。明治22年11月23日、伊東ら6人が発起人となり、郷土愛を土台に、相互の親睦と切磋琢磨を目的とし、共存共栄を計る同郷人の団体結成が具体化された。これが「有為会」の誕生である。

2.寄宿舎建設への胎動
 明治40年8月、第17回総会の折、通則の1部が改正された。つまり寄宿舎の建設(予定)に伴う条項の追加改正である。
 第7条ノ1 本会ハ東京及ビ仙台ニ漸次学生ノ寄宿舎ヲ設ケ別二定ムル所ノ規則二依り之ヲ管理ス
 第13条 教育部二於テハ学生ノ指導監督寄宿舎貸費並巡回学術講演会二関スル事務ヲ掌理ス

 明治40年12月2日、日本橋の偕楽園において評議員会並びに新旧会長の歓送迎会(小森沢長政会長から平田東助会長へ)が催された。小柿源蔵総務部長は、米沢有為会が早急に手掛けなければならぬ寄宿舎建設、社団法人化の問題を予測して、新会長の識見力量に大いに期待している旨の挨拶を行った。

3.寄宿舎敷地の選定
 明治41年4月20日、精養軒において上杉憲章総裁推戴会が聞かれたが、これに先立ち開催された評議貝会においては、
1.寄宿舎敷地(甲地・乙地)の選定の件
2.寄宿舎建築の設計監督を中條精一郎と小沢義平に嘱託の件(全員一致可決)
ほか3件の事項が審議された。
敷地選定については、高梨源五郎案により、将来の発展のため広い方の甲地(六百余坪)とし、両敷地の価格2万円は上杉杉家よりすでに出金、建設費7千円は興譲館財団(私立米沢中学が尋常中学の資金取得のため募金した基金を基に、明治39年11月文部大臣の認可を得て組織)より出金。利子を払うべき元本2
7千円のうち5千円は、高梨案により乙地の代価として財団引受けの約束により差引2
2千円。利子は上杉家分は年6朱、財団分は7朱。財団からは第2年目より毎年2千円~2千5百円の補助を仰ぎ、初年に要する資金は、有為会基本金より千3百円の範囲内で一時流用することとし、第9年目に全部償却する予算を立てる。但し、乙地(446坪余)の売却金が5千円を超過すれば、その超過分は財団より有為会に交付の約束がなされた。

4.東京興譲館寮の開館
 『米沢有為会雑誌』第190号(明治42年1月)「思藻」欄に吉田熊次は「米沢有為会と寄宿舎」と題してこう書き出している。
「我が米沢有為会の寄宿舎を切望せるや既に久し。明治33年の夏、我が米沢有為会は第1回の巡回講話を会の事業として決行するや、巡回講話と寄宿舎を以て、本会の目的を遂行することは重要なる手段と認め、これを会則に明記して、以てその成功を公約せり・・・・・・・・本年1月1日、小石川表町を歩き、我が有為会寄宿舎の北風を凌ぎて、伝通院陵上に聳ゆるを見、内に欣喜の情に堪へざるものありしと共に、之が為に尽力せられたる先輩知友の労力の如何許りなりしやを回想し、将来の責任の大なるを畏るるの情禁ずる能はざりき」
長野県在住の会員椎野誠一は、「郷党子弟団楽して郷国良風の発展所」となすため、次のような提言をしている。
管理者(有為会本部)に対しては、①自治制の採用 ②監督者の同宿 ③積極的な先輩の来訪激励 ④娯楽室・図書閲覧室等の設備充実。寮生に対しては、①規制の厳守 ②朝夕の皇居と故郷の遥拝の実行(または教育勅語奉読) ③時間的な「けじめ」の励行 ④自治制の完成 ⑤不識公と鷹山公尊像の掲額 ⑥鶏等飼育の実利的労働への出精 ⑦購買組合の組織。以上列記された諸提案は、いかにも米沢人らしい発想であり、特に「実利的労働」の奨励は、上杉鷹出以来の実学思想の「明治版」とでも云うべきものであろうか。
 明治42年2月28日に竣工受け渡しを済ませた米沢有為会寄宿舎興譲館は、和洋折衷の2階建、6畳間15、四畳半7、集会室36畳、入舎生37人で、工事費総額は、4,417円21銭2厘であった。
4月1日舎生収容、同2日入舎式、同3日、上杉茂憲・憲章父子はじめ、千坂高雅、山下源太郎、千坂智次郎、下條正雄、三宅雪嶺、井上哲次郎ら名士の来臨の下に開館式が挙行された。
小林源蔵総務部長が寄宿舎設立の経緯を説明、次いで上杉憲章総裁の式辞、学生総代椎野信次の祝辞の後、千坂高雅が演説、「友愛を守り、相互扶助の精神を忘れず、絶対徒党を組むべからず」と訓諭、さらに少壮の時代に体を鍛える必要を強調。つづいて、海軍薬剤中監高橋秀松は、「親切を旨とし、興譲館気質を醸成して現代の弊風を超越すべし」と力説した。

5.財政の安定確立
米沢有為会の基礎確立の最後の問題は、財政上の3大懸案の解決であった。即ち
1.興譲館寮の借地料の減免。
明治44年9月21日の評議員会の決議に基づき、上杉家と交渉の結果、先に買収した土地の半分を村山同郷会に貸与し、従来有為会が負担して来た1,200円の地代を、翌45年からは720円に減ずることになり、更にその後6年間にわたって逓減し、明治49年(大正5年)以降の地代を免除してもらう運びとなった。
2.県費補助の確定。
明治45年度から50年の間に1万円ずつ交付が決まった。
3.基本財産管理規定の県認可。

6.舎生の意識の変化
東京・仙台・札幌に興譲館寮が開設されたが、当初は郷里を離れ他郷で学ぶ学生にとって寄宿舎の存在は、特に経済的な面で無類の「恩恵」であった。だが、時代が進み、米沢の郷土的精神主義が若者には敬遠される傾向が現れ、有為会も発会当初の郷土意識が次第にマンネリ化し、時代と共に変貌を余儀なくされて行く。
昭和2年6月、我妻栄は「米沢有為会雑誌」第364号に寄稿。
この中で、興譲館寮については「郷里の寄宿舎なるものは、今日においては単に〈安い下宿〉という以上に何等か精神的な利益を有するか、ということになると、私は何もないと考える」と断言。「安い下宿として恩恵を受ける者が少なく、たまたま米沢が本籍というだけで寄宿をみとめる非合理的な運営は有為会の事業に不相応」という理由からである。

7.東京興譲館寮の移転改築
明治42年建設の東京興譲館寮は、敷地南隣に淑徳高等女学校の3階建校舎が新築されたため、日陰となり、また老朽も目立ってきた。そこで寄宿舎の新築には不適切な敷地となったので、その移転改築の方法について昭和9年1月評議員会を開催して、次の3項を決めた。
1.上杉伯爵家より許される範囲内で土地の選定並びに寄宿舎・館長公宅の建築設計をすること。但し土地の面積は館長役宅及びテニスコートの所要面積を最小限とし、万一上杉家許容の範囲内で支弁不可能の場合は、その超過金額に相当する土地購入金は有為会資金をもって一時調弁してこれを有為会所有地とし、追って 資金補充計画を立てること。
2.東京興譲館建築委員は15名以内とし、これに土地の選定、建物の設計その他同館建築及び移転に関する一切を委任すること。
3.前項建築委員15名の詮衡員指定は議長に一任すること。
そこで村山同郷会関係者との折衝を開始し、昭和8年7月以来上杉家並びに村山同郷会と紆余曲折種々交渉の結果、同会が東京興譲館所在の上杉家所有地を全部5万三3円で買取り、米沢有為会は右売買契約の完全履行を条件として、現寄宿舎建造物を無償で村山同郷会に譲渡し、上杉家においては右売払い代金中、現敷地買取り代金同等又はそれ以上の全額をもって、興譲館新築敷地を買収してその使用に供し、5千円を右の土地維持資金として留置き、なお上地収得諸費用を支払った残金を東京興譲館新築資金として寄贈の恩典を受けることになった。
この様にして、上杉家対村山同郷会売買契約書と米沢有為会対村山同郷会契約書がそれぞれ交換され、新築敷地として西大久保四丁目(富山ケ原陸軍射的場南側)に上杉家所有466坪85、有為会所有地187坪23、計654坪08の政府払下げ地を11
9千4百32円60銭で買収、延べ坪数212坪24の寄宿舎及び延べ坪37坪67の館長役宅並びにテニスコート建設の設計を完了する。5月12日地鎮祭、6月26日上棟式、10月14日竣工式と順調に進捗する。
「東京興譲館建築予算書」は支出予算で3
9千850円。
昭和9年10月14日の竣工式当日、上杉総裁の告辞の後、宇佐美会長の謝辞。次いで館長遠藤達は「新興譲館は通風採光及び設備において学生の勉学に、将又修養に最適の条件を具備し、在舎生一同をして恰も理想稀に在るの思いあらしむ。惟ふに世界の文運は日に日に急進し、平和の戦争亦年1年激甚を加ふ。苟も天下国家に志あるものは時勢に媚びず確固たる信念を抱き奮励努力帝国のため有為の人材たるを期すざるべからず………」と舎生に対する覚悟を促しながら謝辞を述べている。つづいて旧館時代の舎生(桂友会)一同を代表して東京電気会社社員本島正太郎が「壮大なる新館を見るとき欣喜措く能はず」と感懐を述べて祝辞を呈し、東大農学部学生星野秀一が「孟母三遷のとかや我等も亦この好適地を得たり
と舎生総代として謝辞を述べる。

8.戦後の興譲館寮
 戦後復刊第1号の昭和27年発刊の『米沢有為会々誌』には、「興譲館だより」として東京・仙台・札幌の3興譲館寮の記事が掲載されている。東京の興譲館は・・・

「かつて諸先輩が吟遊した射撃場際の上堤には、立入禁止の札が厳めしく立てられ、テニスコートであり、又戦争中は防火用水、壕舎(防空壕)であったところには、身丈程の雑草が一面に蔽って居た・・・


終戦後学校現場の授業が再開されると、興譲館寮生たちは、(昭和24年10月2日4年ぶりに東京興譲館が開館するまでは) 一時先輩の篠田義市(評議員)・遠藤達(相談役)・永井省三(評議員)ら3氏の私宅に寄宿して厄介になっていた。

「あの当時、或いは法外な値の下宿に、或いはトタン葺のバラックの親戚にと、それぞれに再会の日近きを念じつつ別れて行きながら、切迫した日々の生活に追われ、学校を異にする境遇にあっては、仙台興譲館がすでに学生の手で再建準備が進められていることを聞いても、結局焦るばかり何も出来なかった。併し、こんな風に学生が生活に追われている間、毎月の理事会では1日も早く住む処を、という諸先輩の御厚意が、当時の支部長加勢(清雄)先生のお力になる、阿佐ヶ谷の住宅購入提案を初めとして、不断に続けられつつあったことは全くありかたかった・・・」

興譲館の再建工事が開始されたのが昭和24年5月。9月北村徳太郎館長の詮衡により5名の学生が入舎許可となるが、配線工事や畳の敷詰め作業が済むのを待ち兼ねるようにして入舎する始末であった。10月2日、相田会長外多数の先輩が参集して開館式が挙行される。
 寮母さんを迎えるまでの約2か月は、寮生の自炊生活が続き、1日2食、しかも粥食をすすりながらの共同生活であった。やがて、寮内は総代・委員の執行機関が統制をとり、重要問題は館長の指示を仰ぎ、月1回の定例舎生会において民主的に処理され、寮の運営も軌道に乗る。 

「終戦後6年を経過した今日では、あの敗戦の直後に見られた打ち砕かれて絶望的に荒んだ思想も、生活態度も、戦災地の復興と共に次第に健全なものへと回復の一途を辿った…故郷を遠く離れても常に恰も故郷に居る如く錯覚さえする、心の安らぎを与えてくれる…」

9.東京興譲館、調布市へ
 昭和39年に「東京興譲館再建委員会」が発足、昭和24年西大久保に戦後再建された興譲館が木造で老朽化が目立って来た。一方東京道学の学生もその数が増えてきて、在京学生寮の拡充を要望する声も強く、理事会では鋭意検討を重ねた結果、6百余坪の遊休敷地を活用して、抜本的に再建する長期計画を立てるために、加藤八郎副会長を委員長として、再建委員会を作り調査研究を進めることになった。
 昭和44年4月以来、再建委員会では多角的な調査研究を精力的に行い、具体的な検討を進めていた。
 この頃のある理事会の模様を小幡常夫は、『米沢有為会会誌』復刊第37号に「宇佐美洵会長の目」と題して、宇佐美会長の人柄に触れている。
 理事会開催の当日、加勢理事の提案説明の後、上杉家への配慮や北村徳太郎案への遠慮から、しばらく沈黙が続いた時、宇佐美副会長が「上杉様の余徳が、札幌、仙台にまで及ぶということは、誠に有難いことである」と語り、この一言で長い問の懸案は見事に解決、それぞれの分担業務が定められた。
この段階では、西大久保四丁目の隣接地にある区立戸山中学校にその敷地拡張の計画があり、東京都が本敷地の譲渡を申し出てきたため、委員会及び理事会において慎重審議の結果、一括譲渡には格好の相手でもあり、また、本敷地の多くの部分につき寄贈主の上杉家からも快諾を得られたので、一括売却の上、その売買益により近郊に閑静な土地を買収し、その差益の一部をもって、本格的な新興譲館を拡充建築する方針を定め、東京都と具体的な折衝に入ったのである。替地については、当時東京瓦斯不動産㈱の企画営業を担当していた小幡理事の格別な努力によって、調布市入間町一丁目36に435坪80の土地を得、早速、東京瓦斯不動産㈱と具体的折衝に入った。
 昭和41年11月28日、新しい東京興譲館寮が竣工を見る。約48名の収容力を持つ鉄筋コンクリート4階建、延べ二七一坪九九二、テニスコート一面を付属する堂々たるもので、建物は大本理事の並々ならぬ尽力で完成したものであった。


仙台興譲館寮

1.仙台興譲館の開設
 仙台興譲館は大正3年、仙台市片平丁に1民家を購入し、修改築を行って発足した。大正14年、角五郎丁(角五郎一丁目)に新築移転している。
 昭和20年7月の仙台空襲で全焼したが、昭和23年に再建復活を遂げている。その後、2度に亘り増改築を行ったが、老朽化がひどく存亡が危ぶまれていた。

2.戦後の仙台興譲館
 戦後復刊第1号の昭和27年発行「米沢有為会々誌」によれば、仙台興譲館は戦火のため規模が半分に縮小され、(敷地の半分を西松建設に売却し、その費用で寮が建てられた)館生が18名、寮母、家族を入れて20名。定例行事として4月の上杉神社遥拝式、10月の芋煮会、1月の新年宴会などが実施され、3月の卒業生歓迎会には三原支部長のほか、東北大学学長高橋里美、国税局長黒金泰美ら名士も多数参加している。
 たよりでは、「朝の食卓には自作の碗豆の味噌汁、夕飯には鰹の照焼一切れも出る」とやや余裕ありげだが、「学生生活は東京に比べ経済的負担は軽いかもしれないが、よろず変動の激しい時代にあってはやはり容易ではない。選挙運動員、家庭教師、夜警、会社の臨時雇、血液売り等々のバイトをやり、この時代の学生らしく生きております」と記載されている。
 また。仙台支部だより第2号で瀬川耕さんは「戦後の寮生活は貧しい時代であったから最初の1年間は5升の米を持っていたと思う。戦後3~4年は米を出さなければ下宿できなかった時代である。食費を入れた寮費は1ヵ月千5百円か千7百円だったように思う。何から何まで自分かちでやらなければならない。もちろん自治寮ではあるが、おばさんだけでは燃料はどうにもならない。給食担当をはじめ、皆がまき割りを交替でやっていたのを思い出す。
 試験勉強などのため寮の1部屋を娯楽室にしていることを宇佐美さんに注意されたが、必要性を迫ったら、これまで80万だしているうえで、更に20万円を出すと言う答えをもらった。それで食堂の東側に娯楽室が作られ、楽になった。次の総会の時、寮の屋根が木端屋根のままでトタン張りもされていない。早晩雨もりの恐れがあるので出来るだけ早く改修してほしいと再びお願いした。私が卒業後に整備されたらしい」と記している。

3.仙台興譲館の再建
 東京興譲館が41年、調布市に竣工されるに及び、42年6月、仙台・札幌両興譲館整備案が検討された。旧東京興譲館敷地の売却代金の一部をもって、仙台・札幌興譲館の整備に着手することを決定した。
 42年9月、札幌興譲館の改築新装を終わり、43年5月に理事会を開催、仙台興譲館の増築改装再建に取りかかることになった。三原仙台支部長を中心とする仙台支部会員の熱心な検討を基礎として、理事会及び再建整備委員会において具体案が検討され、角五郎一丁目に32名収客の寄宿舎を建築することになった。本建設資金は、旧西大久保興譲館の敷地売却金で賄うことになっていた。

4.仙台寮の移転新築
 昭和62年に仙台興譲館が現在地に新築移転した。この間、移転地の物色、旧敷地売却先の検討、売買価格の折衝、寮生や寮母の希望聴取と検討、引っ越しの世話、諸官庁への届出や登記等々、数々の諸問題をひとつひとつ解決。その結果、昭和62年7月、角五郎一丁目の敷地面積283坪を仙台ミサワホーム㈱に1億7千万円で売却し、旧興譲館から5百メートルも離れていない広瀬川のほとり、そして寮生のほとんどが通う東北大学にも近い角五郎二丁目6-21に、162坪の土地を約9千5百万円で㈱奥村組から購入した。残額で延床面積158坪、鉄筋コンクリート造2階建て、全館暖房付きの新興譲館が誕生した。設計は会員の御供政敏氏の㈱MIT建築研究所、建築は㈱奥村組。


札幌興譲館寮

1.札幌興譲館の開設
 札幌興譲館は昭和3年、札幌市北七条西十二丁目にある北大敷地(国有地)を借用して寮舎を建築することになった。財政計画では興譲館財団から折衝の末6千円、札幌有志の寄付金5千円、更に新規募集で千円、東京支部会員の寄付千5百円となり、昭和5年4月、定員10
の宿舎建設に取りかかり、6月30日に竣工した。建築費は7千円、請負業者は伊藤組たった。
概要は、敷地約4百坪、建て坪86坪2合5勺(1階48坪2合5勺、2階38坪)、1室1人の定員10名、構造は木造2階建て屋根亜鉛鍍(トタン)鉄板葺。

2.戦後の札幌興譲館
 戦火にあわなかった札幌興譲館について、戦後復刊1号の昭和27年発行の「米沢有為会々誌」によれば「創立以来26年を経て、この頃では建物も古びて正に興譲館と呼ぶに相応しい風格が出てきたようです」と、なんとなく平和な、大陸的雰囲気の書き出し。「現在まで送り出した先輩は六十数名。農・工・医・埋かほとんど全部で、文科はわずか1名で、終戦後にわかに作られた法文ですから当然の結果です。米沢興譲館中学出身者も戦前はかなり来ていたようですが、戦後はにわかにさびれて昨年、一昨年あたりではわずかに1人、米沢に関係深き者数名で、寮の経営上寮生の知人友人等を入れて寮を維持してきたのですが、現在も興譲館高校出身者は僅か1名です。以上のごとく米沢出身者が至って少なく、有為会の人からも館の性格を云々され、存続が無意味の如く思われたこともありました。有為会員も多いといわれない当地では、館の存続維持~の解決しなければならない重要な問題が多い」と記されている。

3.相次ぐ補修
 札幌興譲館は戦火を受けなかったものの老朽化が進み、28年7月、寮舎の補修、内外壁の塗装、水道増設改善工事を実施した。工事費は16
4,540円。30年には屋根、炊事場、洗面所の水道、部屋の窓枠、窓ガラス等を補修した。
 以後、昭和35年1月~5月、37年、38年、40年春と毎年のように補修がなされている。

4.42年に大改修
 昭和42年に増改築された。木造建築の老朽化が耐用限度に達したためで、増改築の工事内容は、改築285.2平方メートル(87坪)、増築24,8平方メートル(7.5坪)、合計310平方メートル(94.5坪)、工事費用472.5万円。1室1人を2人とし定員を17名に、天井を防寒天井に、窓を二重にして外側をアルミサッシ化し防寒的に、建具は全面更新、便所は水洗式、浴室は石炭釜からガス釜などなど大規模な工事となった。

5.札幌興譲館の閉鎖問題
 国から借りていた上地の借用料について大幅な値上げ改正が相次ぐと共に、昭和50年代に入ると再び補修工事が必要となった。昭和62年3月には会員あてに「札幌興譲館(米沢寮)の閉寮問題に就いて」の文書を発している。
 この中で閉鎖について問題点として①北海道財務局より米沢寮用地の払い下げ(買い取り取得)を強く要請されていること ②寮舎の老朽化が著しく進行し、その修繕・補修に年々多額の経費を要する様になり、更に従来の巨額の地代(借地料)が地価の高騰により値上げされる見込みであり、維持運営補助金と併せて、それだけでも有為会本部の財政負担が限界にきている ③米沢市及び置賜地方から北海道大学等を志願する学生が近年激減
して、将来の見込みも少なく、有為会本部としては、札幌興譲館維持の役割が終えんしたと判断されたこと。

6.札幌興譲館の閉鎖
 札幌興譲館は昭和63年1月、国有地である敷地280坪を約7,500万円で国から払い下げを受け、これを大木須田町地所㈱に約1億1,400万円で売却、閉寮した。昭和の時代に56年間存続した札幌興譲館の「形」は消滅したものの、その問、幾多の逸材を輩出しており、また転売益(実質的には借地権の売却益)から諸経費を差し引いた残金3千万円強は、当会の貴重な育英資金となった。


山形興譲館寮

1.山形興譲館の由来
 昭和30年8月、山形興譲館寮が開設された。山形市薬師町420の1は元長谷川外科病院の建物であり、それを借用したものだった。
 木造亜鉛葺2階建1棟。平屋建2棟。(3棟共同じ敷地)内部は、8畳9室・6畳8室・5畳1室・4畳1室、41
収容可。
 山形入学より約1キロメートル北西に位置し、薬師堂・山形県護国神社・馬見ケ崎川に近く、盃山・千歳山、遠くは龍山・蔵王・月山を眺め、最上川は帯のように流れ、環境は雄大にして、四季の風景に恵まれ、勉学にはこの上とない境地でもあった。
 勉学はもとより、春ともなれば千歳公園・護国神社境内の夜桜を見物し、ボンボリと桜花を傘にして車座を形成し、花見の宴。夏は月山・羽里山・湯殿山・蔵王山への登山。秋は馬見ケ崎河原に於いての名物芋煮会を満喫。冬は蔵王山で樹氷を縫ってのスキーを楽しむ。
 その他、支部長・篠田甚吉氏の経営する篠田総合病院大講堂等々に於いての学生主賓懇親会。又、山形支部が開催する総会や懇親会、園遊会の思い出。山形興譲館自体の催しものもあり、3月ともなれば、卒業生や新人学生の歓送迎会等々と学生時代特有の思い出は多がりしだった。寮生も定員に達する盛況も屡々たった。

2.山形興譲館の閉鎖
 然るに、昭和37年5月、山形興譲館家主、長谷川家より山形興譲館賃貸契約期限満了に伴う、同年6月30日限りとするとの連絡があった。
 但し、1ヶ月の延長を諒承され、同年7月31目をもって長谷川家に返還せざるを止むなき至った次第。
 実情は、山形興譲館を利用する学生は、昭和35年頃から、交通事情の好転によって、置賜周辺より山形大学に通学が可能な状態と相成り、山形興譲館利用者が極度に減少の一途を辿り、他県人の希望者をも入寮を認めざるを得なかった経営状況にまで至っていた。
 従って、山形支部役員会を再三開催し、有為会本部にもその事情を報告し、山形興譲館を甚だ不本意なことではあるが、断念の結論に達した。
 山形興譲館開設以来約7年、惜しまれて廃止となり、7月31日をもって、長谷川家に無事返還し、発展的解消された次第。
 山形興譲館開設以来寮生は60余名、有為なる人材を世に送つてきた。
(出宮 光雄記)
※引用文献「米沢有為会々誌」、「札幌興譲館の六十年」、東京・仙台・米沢の各支部だより。


【興譲館寮史】

明治22年11月 有為会の誕生
明治40年8月  通則改正、寄宿舎の建設が明記される。
明治42年2月  寄宿舎東京興譲館が小石川表町に竣工、4月入館
大正3年10月  仙台興譲館、片平丁に開館
大正14年    仙台興譲館・角五郎丁に移転新築
昭和5年6月  札幌興譲館竣工、9月入館
昭和9年10月  東京興譲館が西大久保4丁目に新築移転
昭和20年    東京(4月)、仙台(7月)の興譲館寮が戦災にあう
昭和23年  仙台興譲館が再建
昭和24年10月 東京興譲館が再建
昭和30年8月  山形興譲館開設
昭和34年12月 仙台興譲館第2次復元増築工事完成 
昭和37年7月  山形興譲館の閉鎖
昭和41年11月 東京興譲館・調布に新築竣工
昭和42年9月  札幌興譲館・新築改装
昭和43年  仙台興譲館・新築改装
昭和62年7月 仙台興譲館・角五郎2丁目に移転新築
昭和63年1月 札幌興譲館閉鎖


【歴代館長】

●東京興譲館寮の歴代館長

氏名

任期

吉 田 熊 次


槙 山 栄 次




宮 島 幹之助




保 科 孝 一


宇佐美 辰五郎


本 間 利 雄


小 林 一 郎


10



11

針 生 忠 一


12

島 津 秀 雄


13

北 村 徳四郎


14

桜 井 凱 夫


15

小 幡 常 夫


16

大 熊   惇


17

高 橋   宏


18

桑 原 喜 平


19

沼 澤 研 一




●仙台興譲館寮の歴代館長

氏名

任期


宮 島   昇

大正3


平 岡 正 倫

大正4年~7


那 須 省 吾

大正8年~昭和10


氏 江 富 雄

昭和11年~?


九 里 尚 知

昭和20年前後


三 原 庄 太(仙台)

昭和30年~32


猪 口 金次郎(米沢)

昭和33年~35


米 地 秀 三(南陽)

昭和36年~44


桑 島 治三郎(白鷹)

昭和34年~52


瀬 川   耕(小国)

昭和53年~56


結 城 隆 弥(川西)

昭和57


中 條   仁(米沢)

昭和58年~平成6


白 石 藤次郎(米沢)

平成7年~平成10


御 供 正 敏(川西)

昭和10年~



●札幌興譲館寮の歴代館長

氏名

任期

須田金之助

昭和5年~11

山田一智

昭和12年~14

相墨伝三郎

昭和15

大石三郎

昭和1621

土佐林

昭和22年~25

上村重信

昭和28年~29

大橋登吉

昭和30

伊藤弥助

昭和35年~46

岡田昌彦

昭和50年~56

10

鈴木吉行

昭和57年~62



●山形興譲館寮の歴代館長

氏名

任期

篠 田 甚 吉

昭和30年~37